志段味古墳群
白鳥塚古墳
尾張戸神社古墳
中社古墳
南社古墳
志段味大塚古墳
勝手塚古墳
白鳥古墳群
しだみこふんぐん
しらとりづかこふん
おわりべじんじゃこふん
なかやしろこふん
みなみやしろこふん
しだみおおつかこふん
かってづかこふん
しろとりこふんぐん
概要
S44-12-006白鳥塚古墳.txt: 河岸段丘の縁辺に築造された前方後円墳である。墳丘の全長110メートル、後円部の径60メートル、前方部の幅30メートル、後円部と前方部の比高9メートル、後円部にくらべて前方部が低くかつ狭い形をしている。古墳の東側と北側には地山を掘りとって境界を画した形跡がある。墳丘の斜面には河原石を用いた葺き石が認められる。後円部の上面には、かつて白色の硅石が敷きつめてあったが製陶の材料として採取されたため現在は残り少なくなっている。学術発掘を経ていないため、内部主体は不明であるが、墳丘の形状から見て、愛知県では最も古い時期に属する古墳と考えられる。
平成26年 追加指定・名称変更
愛知県名古屋市守山区上志段味は濃尾(のうび)平野の北東端にあたり、庄(しょう)内川(ないがわ)が山地を抜け、濃尾平野へと流れ出る部分にあたる。そして当該地域に位置する名古屋市内最高峰、標高198.3mの東谷山(とうごくさん)の山頂から山裾、およびその西麓の河岸段丘上の東西1.7km、南北1kmの範囲には、多数の古墳が存在する。
現在までに確認された古墳は計66基で、そのうち墳丘が現存するものは33基である。内訳は前方後円墳が2基、帆立貝式古墳が5基、円墳が50基、方墳が1基、墳形不明8基である。東海地方の前期古墳に特徴的な前方後方墳は認められない。
このうち、東谷山西麓に位置する白鳥(しらとり)塚(づか)古墳は、墳長115mの前方後円墳で、その墳丘規模は愛知県下3位の規模を誇る。墳丘は良好な状態で遺存しており、墳丘の南側には周濠の痕跡が認められ、築造年代は4世紀前半と考えられる。このように、東海地方を代表する前方後円墳であることから、昭和47年11月に史跡指定された。
今回追加指定するのは6基の古墳である。これらの古墳については大正12年の京都帝国大学による発掘調査を嚆矢とし、その後も断続的に測量及び発掘調査が行われてきた。平成17年度からはこれらの古墳の適切な保護・活用を図るための範囲確認調査が名古屋市教育委員会によって継続的に行われた。その結果、主要な古墳について墳丘規模や築造年代などが明らかとなった。
尾張(おわり)戸(べ)神社(じんじゃ)古墳は直径27.5mの円墳で、東谷山の山頂に立地する。墳丘上部は神社社殿の造営にともない削平されているが、1段目平坦面より下位は良好に残存しており、多くの角礫を用いた葺石が検出された。築造年代は4世紀前半と推定される。
中社(なかやしろ)古墳は墳長63.5mの前方後円墳で、東谷山山頂からのびる尾根の先端に立地する。後円部斜面には葺石を用いているが、後円部頂平坦面では石英の小礫が多数確認されている。後円部北側では丘陵が大きく削平されており、その端部において円筒埴輪列が検出された。それらの年代から4世紀中葉の築造と推定される。
南社(みなみやしろ)古墳は直径30mの円墳で、中社古墳の南側に立地している。墳丘上段に円礫を、墳丘下段では角礫を葺石として用いている。古墳の南西側には方形状に張り出す地形があり、古墳に関わる空間の可能性がある。築造年代は4世紀中葉と推定される。
志段味(しだみ)大塚(おおつか)古墳は墳長51mの帆立貝式古墳で、東谷山西麓の中位段丘に立地する。京都帝国大学による発掘調査において、粘土槨から鉄器・武具・馬具などが出土したことで、学史的にも評価されている古墳である。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が巡る。築造年代は5世紀後半と推定される。
勝手(かって)塚(づか)古墳は墳長55mの帆立貝式古墳で、東谷山西麓の低位段丘に立地する。墳丘の残存状況は良好で、後円部は2段築成と推定される。後円部平坦面には埴輪列が密に並べられていた。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠と周堤がめぐる。県下の古墳では唯一周堤が現存している貴重な事例である。6世紀前葉の築造と推定される。
東谷山(とうごくさん)白鳥(しらとり)古墳は直径17mの円墳で、東谷山西麓の低位段丘の縁辺部に立地する。墳丘の周囲には周濠も確認されている。埋葬施設は無袖式の横穴式石室であり、羨道の前方には側壁を有する前庭部がある。6世紀末から7世紀初めの築造と推定される。
このように、この地域においては古墳時代前期中葉から後期末にかけて、わずかに途絶期間を挟みながらも、長期にわたって古墳が造営されるとともに、墳長100mを超す大型前方後円墳から直径10m前後の小型円墳まで、規模・形の異なる多くの古墳が築かれており、当該地域の社会構造や歴史的推移を窺うことができる。また、古墳の出現から終焉に至るまでの歴史的経緯が、1.7k㎡という範囲で明確にたどることのできる古墳群は、東海地方のみならず全国的にみても稀有な事例である。
したがって、今回これら既指定の白鳥塚古墳に、尾張戸神社古墳、中社古墳、南矢代古墳、志段味大塚古墳、勝手塚古墳、東谷山白鳥古墳を追加指定し、これらを総称して、「志段味古墳群」と名称変更し、一体的に保護を図ろうとするものである。
令和3年 追加指定・名称変更
志段味古墳群は、 濃尾(のうび)平野の北東端、庄内川(しょうないがわ)左岸に位置する標高198.3mの東谷山(とうごくさん)の山頂から山裾、その西麓の河岸段丘上の東西1.7km、南北1kmの範囲に立地する古墳時代前期中葉から後期末にかけて造営された古墳群である。墳長100mを超す大型前方後円墳から直径10m前後の小型円墳まで、墳形・規模の異なる多数の古墳がわずかな途絶期間を挟みながらも築造されている。現在までに確認された66基のうち墳丘が現存するものは33基で、その内訳は前方後円墳が2基、帆立貝式古墳が5基、円墳が50基、方墳が1基、墳形不明8基である。このうち、良好な状況で墳丘が遺存する古墳時代前期の墳長115mの前方後円墳である白鳥塚(しらとりづか)古墳が、昭和47年11月に史跡指定された。その後、名古屋市教育委員会による発掘調査が実施され、墳丘規模や築造年代が明らかとなった6基の古墳が追加指定され、現在、7基の古墳が史跡指定されている。
今回、追加指定しようとするのは、志段味古墳群北端に立地する白鳥古墳群を構成する白鳥5号墳と7号墳である。白鳥古墳群は8基から成る古墳群で、このうち東谷山白鳥古墳(白鳥1号墳)が史跡指定されている。平成17年と28年に名古屋市教育委員会が東谷山白鳥古墳に近接する白鳥5号墳と7号墳の発掘調査を実施し、両古墳の概要が判明した。白鳥5号墳は直径12mの円墳で、幅1~1.5mの周濠を備え、埋葬施設は北西に開口する無袖式の横穴式石室である。本墳の築造は、出土遺物により6世紀末から7世紀初頭の築造と考えられる。白鳥7号墳は直径9.5mの円墳で、周囲には周濠が巡る。墳丘の大半は消失していたが、石室側壁とみられる石列が確認されたことから埋葬施設は南に開口する横穴式石室とみられる。本墳の築造は、出土遺物によると6世紀後葉に遡る可能性がある。現在は、周濠の一部のみが現存している。
今回、この2基の古墳を追加指定して東谷山白鳥古墳(白鳥1号墳)とともに白鳥古墳群とし、その名称を変更し、保護の万全を図るものである。
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国指定文化財等データベース(文化庁)