矢立山古墳群
やたてやまこふんぐん
概要
S51-12-018[[矢立山古墳]やたてやまこふん].txt: 対馬の西海岸厳原町小茂田の集落の東方、北から延びた1丘陵の稜線上に横穴式石室を具えた2基の円墳がある。2基の古墳は、約20メートルの間隔をあけて南北に並んでいる。
南の1墳は、第1号古墳と呼ばれており、現在径20メートル、高さ3メートル弱の封土を持っている。周囲に数か所石積みがあり、もと積石塚であったかと考えられている。石室は墳丘の中央にあり、南に開口している。石室は羨道と玄室間に仕切りのない平面長方形で長さ4.5メートル、幅1.7メートルを測る。玄室の入口には閉塞用の平石材が積まれている。天井石は、板石6枚が残るが、旧状は10枚前後存在したかと思われる。床面には平石を密に敷き、側壁は平石を水平に、ゆるやかに内に傾くよう巧みに積み上げ、極めて整備な姿を示している。早く開口していたため副葬品は殆んどのこされていないが、玄室の奥寄りに、木棺に用いた釘をはじめ金銅装大刀片が発見されている。
第2号古墳は、円墳と思われるが、墳丘の大半を流失している。中央に平面T字形を呈する極めて特異な横穴式石室を設けている。横に長い玄室は長さ3.8メートル、幅1メートル、羨道の奥につづく玄室部は長さ2.5メートル、幅0.9メートル、また閉塞部をも含めて羨道は1.7メートル、幅は入口がひらいて1.1メートルを測る。石室、側壁のすべてが長方形に近い割石をもって整然と積まれ、直壁ぎみにたち上がる美しい構造である。床面には平板石を一面に敷きつめている。玄室の東南隅には土器や刀が、また、羨道につづく玄室の奥には銅鋺が副葬されていた。
対馬には、現在、4基の横穴式石室墳を見るにすぎないが、本例は、その中でも極めて特異な形態を示すものであり、しかも良好な保存状況を示すこともあって、重要なものといえるであろう。7世紀代に属する古墳として、日本・韓国間の交流の門戸としての対馬の位置を考える上に欠くことのできないものである。
矢立山古墳群は対馬南部の西岸、標高45m程度の丘陵上に立地する7世紀の古墳群である。この古墳群は古くから注目され、昭和23年には東亜考古学会により発掘調査が実施された。昭和51年には、対馬における終末期古墳であり、T字形を呈する横穴式石室は大陸との関係を示すことから、2基の古墳が史跡に指定された。平成12年からは厳原町教育委員会が、内容を確認する発掘調査を福岡大学人文学部考古学研究室とともに実施してきた。
1号墳は東西11.6m、南北10.5m、高さ2.4mの墳丘に貼石を施した3段築成の方墳で、埋葬施設は無袖式の横穴式石室である。出土遺物には金銅装大刀、木棺に使用された鐶座金具及び土器があり、7世紀前半から終末までと考えられる。2号墳も東西8.8m、南北10.5m、高さは2.5mを越える墳丘に貼石をもつ3段築成の長方形墳である。この古墳を特徴づけるのは、T字形を呈する横穴式石室である。出土遺物は金銅装大刀、銅椀及び土器で、その内容から7世紀中葉から終末のものと見られる。
その後の調査により、1・2号墳の東側で新たに発見されたのが3号墳である。東西は4.2m、南北は6.6m、高さは上半部を失っていたため不明である。1・2号墳とは異なり積石塚であったが、段築は確認されていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。出土遺物は鉄刀、鉄鏃及び土器類で、7世紀後半のものと考えられる。
矢立山古墳群は、7世紀前半から終末にかけて営まれた3基の古墳からなり、新たに発見された3号墳は1・2号墳よりも後の築造で、これらとは規模や構造などにおいて様相を異にする。今回、墳丘の十分な保護を図るために古墳群の周辺部分を追加指定するとともに、古墳の立地と直接関わらない部分を一部解除し、名称を「矢立山古墳群」に変更した上で、適切な範囲の保護を図ろうとするものである。