武雄ガラス
たけおがらす
概要
武雄の儒学者清水竜門の、天保7(1836)年11月1日の日記に「武雄社参詣、帰路びいどろ作りを見る」と見えることから、武雄ではすでにこの時期にはガラスの製造が行われていたと考えられる。
天保期以降、武雄では理科学研究に力が注がれるが、その過程で、薬品の腐食に耐えるガラス器が必要となったためであろう。この時期のガラス製造所は、おそらく柄崎城内(現在の武雄高校)にあり、陶磁器を焼成した三ノ丸窯の場所かその周辺に設けられていたと考えられる。
また、佐賀藩武雄領が行なった貿易港長崎でのさまざまな物品購入の記録である「長崎方控」弘化4(1847)年の注文によれば、「弓野ニ而製造之硝子器」などとあって、弓野(現在の武雄市西川登町内)でもガラス製造が行われていたと見える記述がある。
武雄で製造されたと考えられるガラス器の材質は、分析ではカリウムを含む鉛ガラスであるため風化に弱く、実際、残されたものもそのほとんどが、全体にアルカリを吹き白濁しており、虹彩や剥離・ヒビも目立つようになった。カリウムが多いのは、原料に硝石(硝酸カリウム)を用いたからではないかと考えられる。
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