絹本著色見心来復像
けんぽんちゃくしょくけんしんらいふくぞう
概要
見心来復は延祐六年(一三一九)に生まれ、洪武二十四年(一三九一)に没したが、その死は悲惨であった。明の太祖は国土を統一すると諸国の名僧を京師に招いた。見心来復もその招きに応じて京師に行き、後、僧録司の左覚義の職に就じ、仏教界の管理行政の枢要に参加したのだが、洪武二十四年胡推庸の獄が生じた時、太祖を風刺した詩を作ったことで連座し極刑に遭ったのだった。詩文の才が却って仇となったのである。
この見心来復の肖像にはその自賛の他に、元来の文人として著名な翰林承旨張〓(一二七三-一三六八)の撰文を能書家であった張彝が書した賛があり、これらに依ると画像は至正二十五年に入元僧以亨徳謙が帰国に際して見心来復の法を嗣ぎ、師の肖像を画かせたものと知られる。入元僧は大変多いが、来復の法嗣となった者は以亨徳謙唯一人である。あるいは、以亨徳謙は詩才があり、中国においては文人との交友も深かったから、詩名の高かった来復に心を寄せたのかもしれない。肖像は円の中に半身を画いた鏡像である。元時代ではこうした肖像が行われていたが他に遺例はなく大変珍しい。文人に賛を求めているところもいかにも中国の習慣、風潮を見せて興味深いものがある。肖像は彩色の剥脱があるが、容貌は比較的良く残っており、有機質の色料を用いた生々しい表現にまことに中国的な感覚を伝えている。
以亨徳謙の正確な生没は不明であるが、寺の過去帳の伝えるところでは応永九年(一四〇二)七月二十四日を亨年と伝えている。入元の年も不明であるが、定巖浄戒の賛によると在元三十年に及んだという。至正二十五年、すなわち我が貞治四年(一三六五)に帰国し、南禅寺や建長寺、円覚寺にあって活躍した。詩藻が豊かであり、五山文学興隆の功績者の一人とされる。晩年のことは不明であったが、この肖像の発見によって九州の地に在ったことが判明した。この意味でも貴重な肖像ということができる。
賛を著けている定巖浄戒は僧録司の左講経の職に在った僧である。その職は見心来復が任じていた左覚義よりは一つ上の階級であるが、ともあれ、中国に縁を求める時代の風潮をこれも示している。その賛に依ると、建文四年、すなわち応永九年(一四〇二)に寿像を送り、賛を得たものと知られる。常識的には老齢に達したのでその肖像を画き、これを海を越えて送ったと考えられるが、白描的な味わいを持った画法、黒々とした樹幹を持つ松の表現は中国的であり、絹地もまたそうした特色を持っており、以亨徳謙が帰国する時に、彼地の人から画き贈られたと見るべきものと思われる。肖像画は松下を経行する姿を画いている。これもまた形式的には珍しい肖像画である。
以上二つの画像は師である中国僧とその法嗣で、その画像を将来した我が国の僧の肖像である。我が国の僧が師の肖像として将来した画像の遺例は意外に多くはない。しかも師弟の肖像画が共に伝わるという例は少ない事例に属する。日中交流の興味深い、貴重な遺例というべきである。
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