谷戸城跡
やとじょうあと
概要
谷戸城跡は八ヶ岳南麓、その裾野に隆起する標高862メートルの城山(茶臼山)にある。甲斐の北西、近世の逸見筋の最奥に位置する旧谷戸村の中心的位置にあって、甲斐源氏の祖、平安末期の[[逸見冠者清光]へみかじや]の居城と伝える城である。
逸見清光は常陸国武田荘を拠点とし、武田冠者を名乗った源義清の子で、新羅三郎義光の孫にあたる。大治5年(1130)濫行によって常陸国司に訴えられ(『長秋記』)、義清・清光は甲斐国市川荘(巨摩・8代・山梨三郡に散在)に流された(『尊碑分脈』)。こののち清光は八ヶ岳南麓の逸見荘を拠点として勢力を伸長し、逸見冠者を名乗るが、江戸時代の地誌『甲斐名勝志』は「矢谷村に城の腰と伝所あり。逸見黒源太清光住給いし館の跡なりと云」、同じく『甲斐国志』は「(矢谷城)古伝二逸見源太清光此ノ城ニテ建久6年6月ヨリ病ミ正治元年6月19日〓(*1)ス」と記している。
一方『吾妻鏡』治承4年(1180)9年15日条は北条義時が甲斐源氏に対し源頼朝方に参加するよう、「逸見山」で要請したことを記している。すなわち「武田太郎信義・一条次郎忠頼巳下信濃国中ノ凶徒ヲ討得テ、去夜甲斐国ニ帰リテ逸見山ニ宿ス。而シテ今日北条殿其所ニ着シ、仰ノ趣ヲ客等ニ示サレ給フト云々」、またつづく24日条、10月13日条にも逸見山より駿河に出陣した旨の記述がある。この逸見山については『甲斐叢記』が谷戸の城山について「又逸見山とも云ふ」と記しているから、この谷戸城のある城山を指す可能性がある。今日逸見山という呼称はないが、城山の西方に逸見神社があり、『甲斐国志』は「社記曰、逸見神社ト云逸見氏世々崇奉ノ氏祠ナリ徃昔ハ古城山ノ南ニ在リ」(諏訪神社の項)と記している。
こののち観応擾乱時(観応2年<1351>)に「甲斐国逸見城」の名が醍醐寺報恩院文書に登場するが、やはり逸見山を指したものか。またさらに下って武田信玄の時代には「谷戸の御陣所」の名が『高白斎記』に散見されるが、軍用道路であった棒道に近接した要衝であり、重視されたものであろう。
さらに後北条氏と徳川氏が、武田氏滅亡後の甲斐国をめぐって対立した天正10年(1582)のいわゆる天正壬午の戦いには、谷戸城は後北条方の城となり、大幅な修築がなされたと『甲斐国志』は記している。
遺構は山頂の周囲を0・5〜2メートルほどの土塁で囲み、東西30メートル、南北40メートルを主郭とする。また東側には高さ2メートルの土塁をめぐらす東西30メートル、南北60メートルのくるわを設ける。また北には二重の土塁を距って2段の東西40メートル、南北50メートルのくるわを、また西方にも小規模なくるわを設けている。
なお昭和57年と平成元年に大泉村教育委員会によって試掘調査が行われ、土塁にそった横堀や、礎石の一部を確認した。また蓮弁文青磁碗の破片や15世紀頃の内耳土器、洪武通宝などが検出されている。
城山の下、城下集落の南西にある城下遺跡では平安期の集落が検出されており、石帯のほか12世紀後半の常滑焼破片、12世紀後半から13世紀に比定される中国青磁、白磁の破片、白かわらけが出土している。古代牧の系譜を引くという逸見荘の中心的な集落であろう。
谷戸城一帯には御所、町屋、対屋敷といった地名が残っている。また今日長坂町大八田にある清光寺は逸見清光の菩提寺と伝えるが、その前身の信立寺は谷戸城の北西にあったという。また谷戸城北西の西井出・石堂には白旗社(白旗明神)があり、『甲斐国志』は「口碑ニ逸見四郎有義此下ニ白旗ヲ埋ム、後人因テ神トシ祀ル」とあるが、白旗社の存在は源氏との関連を示すように思われる。その社地には基礎石を共有する2基の不整形な石層塔がある。また谷戸城山頂にある八幡宮についても『甲斐国志』は「茶臼山ノ城址ニ在り、源太清光ヲ配祀セリ」と記している。
このように谷戸城は甲斐源氏発祥の地とする伝承を極めて豊かにもち、かつ中世を通じてこの地域の拠点の城としての役割をはたし続けてきた。現在山梨県内における武田氏関連の城館としては武田氏館跡(昭和13年指定)、要害山(平成3年指定)、新府城跡(昭和48年指定)が、また一族家臣の城館として勝沼氏館跡(昭和56年指定)が、また山梨県外の武田氏関係の城として高遠城跡(昭和48年指定)、諏訪原城跡(昭和50年指定)などが国指定史跡となっているが、谷戸城跡は初期武田氏にかかわる伝承をもつ城として、甲斐を中心とする地域における城館跡のあり方や武田氏を中心とする各勢力の発展過程を具体的に知ることができる遺跡といえよう。このような歴史的意義にかんがみ、史跡に指定しその保存を図るものである。