伊江島の村踊
いえじまのむらおどり
概要
伊江島の村踊は、伊江島の各地区の人びとが伝承する伝統的な歌や踊り、さらに組踊であり、そのなかには「ヤマト言葉」による歌や、それに合わせての踊り、また『仮名手本忠臣蔵』を組踊に仕組んだものなどがある。
伊江島は、沖縄県北西部の本部【もとぶ】半島から海上を北西に約一一キロメートル先にある。琉球王朝時代に、伊江島を治めた領主は首里に居住し、その屋敷に島の住民が選ばれて奉公に行き、さらに領主が琉球王朝の命を受けて薩摩や江戸に行くときに、伊江島の人びとが随行した。その人びとが薩摩や江戸で、また江戸への往復の途中に見聞きしたヤマトの芸能を取り入れたものが、後に伊江島の村踊になったとされる。
また島には一九世紀初めに学問所として「会所」が置かれ、そこに学ぶ青年たちが、地元に伝承される民謡に踊りの振りを付け、島の人びとに正月などに披露することがあり、後に、それらも村踊に組み込まれていったとされる。
伊江島には、特色ある歌い方として「キプゾ」が伝承されている。キプゾとは木製の箱形のタバコ入れのことで、それを叩いて拍子をとり、さらに口【くち】三味線を唱え、それに合わせてさまざまな歌詞で歌うことである。また歌詞が八音の句を基調とする沖縄の歌の特色をもつが、他地域にはない「真北」(マチタ)や「城の前」「えんさ節」などの歌があり、さらにもとはヤマト言葉の七五調であったとされる「吉田」や「シティナ節」「次郎が」「殿の御門」などの歌が踊りとともに伝承されている。
踊りは、青年の踊りである二才踊りに、足首を曲げるなど独特の所作があり、また衣裳も黒の羽織に紋付を着るなど、沖縄県の他地域にみられない特色をもっている。
伊江島の村踊として伝承される組踊は、「忠臣蔵」「矢蔵【やぐら】の比屋【ひやー】」「伏山敵討【ふしやまてきうち】」「立山【たつやま】(忠臣反間【はんかん】の巻)」「大川敵討」「久志の若按司【あじ】」などである。このなかで「忠臣蔵」は、寛延元年(一七四八)に大坂の竹本座で初演された「仮名手本忠臣蔵」をもとにしている。役名は「大星由良之助【おおぼしゆらのすけ】」を「大石大主【うふぬし】」に、「塩冶判官【えんやはんがん】」を「塩冶の按司」に、「お軽」を「加那ぐすい」になど沖縄風に置き換えている。また全体の筋は「仮名手本忠臣蔵」の三段目「刃傷【にんじよう】」や七段目「一力【いちりき】茶屋」、一一段目「討ち入り」などを中心にまとめ、音楽は沖縄伝統音楽の「伊野波節」や「子持節」などを使っている。
組踊は、本来、琉球王朝の貴族が伝承してきたので、村踊として地域の人びとが伝承するようになったのは明治以降と考えられるが、組踊「忠臣蔵」については、同村の上地【うえち】太郎が、一八四〇年に独自に作ったものであったので、早くから村踊として演じられていたと地元では伝えている。
伊江島の村踊は、各地区ごとに、それぞれ個別に、あるいは地区を越えて村共通のものとして伝承するものがあるが、いずれも、かつては地区ごとの「村遊び」などで披露されてきた。昭和四十八年に地区を越えた伝承組織として、伊江村民俗芸能保存会が結成され、昭和五十五年からは、毎年十一月中旬の伊江村産業まつりに合わせて定期的に公開するようになり、村内の八地区が輪番で当番になっている。なお、当番になった地区は、事前に練習を重ね、十月中に「前仕組み」と呼ばれる稽古の総披露として、地区公民館の前庭に仮設舞台を設けるなどして、地区の人びとが互いに披露し合う形で行っており、かつての地区の「村遊び」として演じられた様子を今もうかがうことができる。
伊江島の村踊は、地域の人びとが、他地域の芸能を受け入れ、地域の特色を反映させつつ独自のものに工夫してきたものであり、芸能の変遷の過程と地域的特色を示す貴重なものである。