對龍山荘庭園
たいりゅうさんそうていえん
概要
S63-5-23對龍山荘庭園.txt: 京都東山西麓、南禅寺塔頭金地院の西隣に仕置する。古くは南禅寺境内に含まれる地区である。
この地は、明治29年に伊集院兼常が所有し邸を開いているが、建築、庭園ともに造詣の深かった人であり、庭園も造られた可能性が強い。
その後、明治34年、彦根出身の京呉服商、市田弥一郎(天保14年〜明治39年)が所有してから、建築、庭園ともに改造した。「京華林泉帖」(明治42年)や「新名園記(2)」(「日本美術と工芸」第4号所収、明治45年)の記載や、建築年代から、明治35年から39年の間に現在に伝わる形の庭園が完成したものと考えられる。この時の作庭者については、明確な資料はないが、「新名園記(2)」の記載などから、当時京都の名庭師であった小川治兵衛(万延元年〜昭和8年)であったとみられる。
全体の構成は、西に建物を配し、東に庭園を設けている。建物は、北から書院(對龍台)、茶室群(聚遠亭)、居室群と連続する。
庭園は、大別して南半の流れと北半の池庭で構成される。南端の小滝から水を落とし、浅い流れとして北流させ、居室、茶室の前を巡り、書院の縁下を通して池に落とす。池の東端では大滝と伝落ちの滝から水を落とし、両滝の中間に水車小舎を設ける。池には中島を設け、渡しかけの橋と沢飛石で結ぶ。南北いずれの水源も琵琶湖疏水の分水を利用している。また、南の流れの東には芝生の園地を設け、池の東奥には菜園を設けている。
この庭園は、明治期に南禅寺界隈に造られた多くの別荘庭園の一つであるが、池、流れ、露地、借景など伝統的日本庭園のほとんどの技法を巧みに組合せ、かつこの時代の庭園の特徴である園遊のための芝生地を設けるなど、作庭技法上特にすぐれたものとして貴重である。