五稜郭跡
ごりょうかくあと
概要
安政三年蝦夷地警備ノ爲函館奉行竹内保徳等ノ築ケル所ニシテ元治元年ニ至リテ成リ函館奉行此ニ居ル明治維新ノ際一旦裁判所ヲ置キシニ尋テ幕臣榎本釜次郎等此ニ據リ官軍攻メテ之ヲ降セリ同五年開拓使建造物ヲ毀タシム
蝦夷地警備のため、箱館奉行の治所として奉行竹内保徳等の築いたものであって、安政四年工事に着手、元治元年五月略々竣功、六月奉行小出秀実がここに移った。明治元年一月裁判所を置いたが、ついで幕臣榎本釜次郎等がこれに據ったので官軍は翌二年攻めてこれを降した。
平地に営まれ、平面五稜形をなしていて、石塁、土塁をめぐらし、南西凾館湾方面に向って入角に大手の虎口を開いている。北及び東にもまた夫々虎口を開き、大手の前面のみに略々三角形状の馬出が、同じく稜角を外部に向けて築かれている。而して周囲には亀田川の水を引く外濠がめぐらされ、その外側には北部を除いて稜形に土塁が連り、虎口の左右馬出及び濠側は石垣を以て堅められていて主要部の石垣の頂部には■出がある。
この設計者は諸術取調所教授武田斐三郎であって、最初の設計に比すれば省略されているが洋風の稜堡築城の経始にならったものである。
建造物は明治五年開拓使によって■たれまた改変されたところもあるがよく旧規をとどめていて城郭史上重要であると共に、幕末における洋学採用の一端を示すものとして学術上極めて価値が高い。