旧金石城庭園
きゅうかねいしじょうていえん
概要
対馬の厳原に所在する金石城跡は、対馬藩主宗家の執政の拠点として、17世紀後半に整備された城館の遺跡である。金石川沿いに開けた谷筋の最奥部に位置し、宗家墓所である万松院の傾斜面が西から迫り、墓所から清水山城跡へと連続する山域が北に控えるなど、照葉樹林に覆われた周囲の自然環境は良好である。
金石城跡の庭園は、城跡の敷地の西南隅部に位置する。戦後、厳原中学校の校庭の一画に巨大な景石を中心に整備された噴水の園池が存在したが、宗家文書の『毎日記』には元禄3年(1690)に「御城」の「心字池」の作庭工事が行われたことを伝える記事があり、校庭に残された園池の起源を示す記事として注目されていた。同時に、文化3年(1806)から翌年にかけて朝鮮通信使を迎えるために城内の整備が行われ、その際の作事に関する複数の図葉には城館の西南隅部に大規模な「泉水」が描かれていることから、中学校の校庭の施設として親しまれてきた園池との関係も指摘されてきた。
金石城跡は平成7年(1995)に史跡に指定され、平成9年(1997)から平成16年(2004)にかけて、史跡の整備事業の一環として園池の発掘調査が行われた。その結果、中学校の施設であった園池の巨石の多くは、江戸時代の金石城庭園の築山に据えられた景石をそのまま踏襲するものであり、その北側には中島を擁する大規模な泉水が造営されていたことが判明した。また、泉水の造成に当たっては、漏水を防止するために版築工法による底打ちを行っているほか、特に中島に架かる石橋の周辺など見所となる部分には、対馬地方に固有の石英斑岩から成る白色の風化土を用いて化粧を行っていることが明らかとなった。さらに、中島の水際を中心に細かな玉砂利を敷き詰めた洲浜状の汀線が見られ、近世庭園としては希少な意匠・構造を持つことも判明した。玉砂利敷の汀線から巨大な景石へと連続する意匠には、対馬地方の東海岸に見られる風景とも相通ずるものがあり、対馬の独特の風土を活かした作庭精神をうかがい知ることができる。また、園池の北から渓流を象ったと思われる流れを経て、北西側の山際から湧き出る水を導き入れ、園地東側の石組水路へと濾過排水する特殊な水回りの構造についても注目される。
発掘調査により明確となった意匠・構造上の特質を踏まえ、平成11年(1999)より平成16年(2004)まで泉水の修復及び整備工事が行われた。こうして、金石城跡の庭園遺構では、庭園の審美的価値の源泉を成す園池の骨格が極めて良好に遺存するのみならず、その地割や構造などが示す庭園史上の高い価値に加え、長い歴史の中で潜在化していた芸術上又は観賞上の価値が修復整備によって顕在化されることとなった。このたび、修復整備が完成した庭園を名勝に指定し、その保護を確実にしようとするものである。