旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園
きゅうしばたはんしもやしき(しみずだにごてん)ていえんおよびいじみのおちゃやていえん
概要
慶長3年(1598)、溝口秀勝が加賀大聖寺から入封し、新潟県阿賀野川以北の地(揚北)に新発田城を築き、蒲原平野の経営に努めた。新発田は江戸時代を通じて溝口氏の城下町で、小藩ながら比較的豊かであった。
3代宣直は万治元年(1658)に曹洞宗高徳寺を五十公野の上新保に移し、その跡地を藩の御用地として下屋敷清水谷御殿を建立した。その後4代重雄の時に幕府茶道方縣宗知を新発田に度々招き、作庭の指導を受け、元禄年間(1688-1704)に清水谷・五十公野・法華寺などの庭園が完成している。
清水谷の庭園は、北寄り御殿上段から眺める大池泉を中心とした奥行きのある景を主としつつ、露地をわたりながら回遊する庭園として造られた。南最奥部に築山を築き、水面は左右に湾入して水面に広がりを思わせる。中景部は水面を絞って左手は州浜に、右手は岩を組んだ険しい岬の景とし、州浜越しには小島を、岬越しに橋を設ける。御殿寄りには水面が大きく広がり、左に水面にせり出す亭、右手にやや大振りの中島を設けている。江戸時代から、「水」の字型に池を掘ったと言われているように、中絞りの池型は前後の水面を大きく見せる効果を発揮し、公儀茶道方指南による往時の庭園地割を良好に保存している大名庭園である。廃藩置県以降次第に荒廃が進んだため、昭和12年復興計画が立てられ、戦争を経て昭和30年復興事業が完了した。指導者は田中泰阿彌で、回遊路に添った露地や建物などはこの時の意匠である。
五十公野御茶屋は新発田藩主の別邸で、参勤交代にはここで旅装を改めるほか、茶寮として重臣にも開放し遊楽の場とした。池を穿ち、緩やかな起伏の築山をめぐらして諸国の名所から取り寄せたスギ・マツの種苗を植え、中島風に出島を設けてゴヨウマツを、御茶屋近くにはウメを植えるなど植物観賞に重きを置いたものとなっていて、石組みはほとんど施さないゆったりとした造りの庭園である。御茶屋と庭をつなぐ部分の飛び石は縣宗知作と伝えられる。庭園東の御腰掛山中腹には華鳥軒という四阿を建て領内眺望の場としている。
現在の五十公野御茶屋は文化11年(1814)に改築されたもので、夏座敷二部屋は開放的につくられ、庭園を十分に鑑賞できるようになっている。なお、御腰掛山上の豊田神社は、新発田城本丸にあった歴代藩主の祠堂(奉先堂)を明治7年にこの庭園内に移築再建して神社としたものである。
本庭園は下屋敷・御茶屋それぞれに異なった趣の庭園が良好に保存され、公儀茶道方が度々下向して指導作庭されたことがわかる庭園として貴重であり、越後を代表する大名庭園であって、名勝に指定してその保護を図ろうとするものである。