池上曽根遺跡
いけがみそねいせき
概要
S50-12-038[[池上]いけがみ]・[[曽根]そね]遺跡.txt: 和泉平野の東にあって南から北にのびる泉北丘陵の一支丘、信太山丘陵の西にひらける平地に所在する著名な弥生時代の集落跡である。この地域には条里制がよく残り、本遺跡が形成・展開した時期の旧地形は辿りにくくなってはいるが、多年にわたる調査の結果、信太山丘陵より西流する一河川の存在が池上の現集落附近で2岐に分流し、1つは北西に、1つは南西に流下していく事実が知られるに至った。本遺跡は、この2岐に分かれる分流点の西にみられる微高地上に占地し、巧みな関連を暗示している。
遺跡は弥生時代の前期にはじまり古墳時代以降に至る各期にわたる遺構・遺物をとどめているが、最も整備された時期は弥生時代中期である。この時期の集落は幅7メートル、深さ5メートルという大規模な溝で北西流する信太川の分流から引水し、東西300メートル、南北400メートルの範囲を楕円形に劃している。内部には多数の竪穴住居をはじめ小溝が見られるほか、方形周溝墓の発見もあり、生活空間の実際を示している。ただ中期以降の集落は、この環濠内部にとどまることなく四周に拡散していくし、墓域も分散していくようであるが、集落の中核がこの環濠内にあったことは容易にうかがわれる。発見の遺物の中でも、多数の石庖丁や農耕具は水稲農耕の、またおびただしい石鏃や蛸壺の存在は狩猟・漁撈の実際を浮かび上がらせるだけでなく、木製鳥形や陽根形はこの時期の信仰までも教える貴重な資料である。尨大な量の土器には、在地でつくられたもの、紀伊や摂津、河内から運びこまれたものが混然として存在し、この集落の中核的意義をよく示している。いずれにせよ、日本の弥生文化を考える上でのきわめて重要な遺跡といえる。