高岡市火葬場へ仏像・仏具寄付感謝状
たかおかしかそうばへぶつぞう・ぶつぐきふかんしゃじょう
概要
寄贈者の祖母が、高岡市(四津屋川原字古田/現在の高岡市本郷)の火葬場に木造の阿弥陀如来像、三具足(みつぐそく)、鏧(台付)を寄贈したことに対し、当時の高岡市長・南慎一郎氏から贈られた感謝状である。
全文墨書で、用紙の右上に割印(朱文長方印「[ ]役所契印」)が捺されている。
この罫紙の版心の下部には「高岡市役所」と印字されており、高岡市役所の所定の様式のものと分かる。また、罫紙の左下の枠外に「(昭二、九)」とあることから、この罫紙は昭和2年(1927)9月に刷られたものだと思われる(全て藍のインクを使用)。
【高岡市市営火葬場(たかおかししえいかそうば)】
市制実施後、明治24年(1891)11月の第二十六市会において火葬場構造協議委員が選任され、翌25年(1892)4月に関町火葬場を買収、同年5月から開場したのが市営火葬場の始まり。その後、現在の芳野中学校グラウンドの東端にレンガ造りの火葬場が新築され、市民の大半が利用するようになった(この地は元々前田利長廟であったが、明治維新後の混乱に紛れて市有地となっていた)。明治42年(1909)に皇太子殿下の北陸行啓が決定し、前田家が廟域復旧の計画を進めた為、市は火葬場の敷地を前田家に譲渡し、郊外の四津谷川原字古田(現在の高岡市本郷)に一段三畝の敷地と一段二畝余りの道路用地を買収して火葬場を新築した。同年8月完成。火葬料は一等10円、二等5円、三等2.5円、産穢物焼却料40銭で、三等の使用者が大部分であった。四津谷川原字古田の火葬場は昭和24年(1949)、寺院風の建築に新改築された。しかし時代と共に老朽化が進み、平成22年(2010)に解体された。
『高岡市史 下巻』(高岡市、1969年)1144-45頁
HP「北日本新聞ウェブ[webun ウェブン]2010年5月24日号」(2016年10月28日アクセス)
HP「火葬場見学日記」(2016年10月28日アクセス)
【南慎一郎(みなみしんいちろう)】
本市中川出身で、大正15年からと昭和23年からの2期にわたり、経済不況と戦後の苦難期において本市の市長をつとめ、市勢の伸展に尽された。特に、昭和3年全国の都市にさきがけて上水道布設に着手、また昭和24年に下水道事業を起工、近代都市の基盤造成に貢献された。
HP「高岡市公式ホームページ」(2016年10月7日アクセス)
【三具足(みつぐそく)】
仏前の供養具である花瓶,燭台,香炉の三つ道具を総称していう。しかし,室町時代には供養具の性格から離れ,鑑賞具として扱う考えが生まれる。《室町殿行幸御飾記》(1437)には三具足が床の間に三幅一対の掛物とともに飾られた記録がある。このような飾付けはやがて形式化し座敷飾として伝承されることになる。押板(床の前身)に三幅一対あるいは五幅一対の掛軸をかけ,その前に折卓(おりしよく)を置き,卓上には中央に香炉を,向かって左に花瓶を,右に鶴亀の燭台を置き合わせる。
HP「世界大百科事典 第2版」(2016年10月7日アクセス)
【鏧(きん)】
磬とも書き,鏧(磬)子(けいす∥きんす),打金(うちがね),銅鉢(どうばち),あるいは俗にザルガネなどともいう。仏教で用いる鳴物(楽器)の一種で,銅または青銅製で大型の鉢の形をしたもの。下に座布団を敷き,木製の台の上に据え置き,皮で巻いた木製の棓(ばい)(桴)で縁を打って鳴らす。大鏧,小鏧などと大小を区別して用いる宗派もある。鏧は主に儀式の各次第の区切りや,誦経の際の合図として,経頭,始経,維那(いな)などという役の僧が打ち鳴らす。
HP「世界大百科事典 第2版」(2016年10月7日アクセス)