「定山請証文之事」(上坂家文書)
やまうけしょうもんさだむるのこと
概要
「定山請証文之事」(上坂家文書)
やまうけしょうもんさだむるのこと
富山県高岡市
明和5年6月21日/1768年
継紙・墨書
縦24.8cm×横56.8cm
1通
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-123
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)
二上村肝煎から東海老坂村五兵衛(1697~1772/上坂氏役儀4代/※1)へ宛てられた「永請地」(無期限の土地貸借契約)に関する史料である。
二上村民は同村領内「岡湯用水湯坪」と「土取場」等の二上山中の土地の借地料(山代)として、「法花坊田」138.7歩(坪)を東海老坂村五兵衛へ渡すという無期限の土地貸借(代替地交換)契約である。しかもこの契約は元和元年(1615)に既にあったもので、「百余年」経ったので、今回(明和5年)改めてこの山請証文を提出したとある。
二上射水神社文書内に、この史料の写し(収147(1))と関連史料(収147)があり、佐伯安一氏は「元和元年といえば近世初頭であり、おそらく中世以来の慣行であろう」と推察している(※2)。
大きなシミや焼け、小さな破れや虫損があり、状態は悪いが、文字は良好に判読できる。
※1・・・【東海老坂村五兵衛】(ひがしえびさかむらごへえ)
東海老坂村の上坂氏の先祖藤兵衛は神保氏張から所領を安堵された小土豪、もしくは有力農民と思われる。元禄3年(1690)五兵衛(役儀初代)の時初めて山廻役に任命され、その後の子孫も多くが同役となった。
役儀4代五兵衛は享保6年(1721)、3代藤兵衛の跡を受け山廻役に任命され、同13年(1728)陰聞役、同18年(1733)下牧野組平十村、元文3年(1738)御扶持人並十村、同5~寛延2年(1740~49)五十里村組当分裁許、寛保2年(1742)御扶持高25石頂戴し、当時の持高は810.943石となった。延享4年(1747)謙徳院様(前田家8代重煕(しげひろ))御印物頂戴、宝暦9~13年(1759~63)鞍骨村組当分裁許、同13~明和2年(1763~65)島組当分裁許を歴任。同6年(1769)役儀指除となり、安永元年(1772)病死した。
その後、6~9代も山廻役を務め、10代は庄川小矢部川並射水海辺潟廻主附等を務めた。
小田吉之丈『射水郡十村土筆』昭和6年など
※2・・・佐伯安一「「養老清水」と「岡の湯」ほか -二上射水神社文書整理作業から-」『二上山研究』第6号(二上山総合調査研究会、2009年)p17
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