信州風景(山)
概要
村山槐多の「カイタ」という名前はとても珍しいが、自分の子供にオットーとかルイとかマリアとかアンヌというヨーロッパ風の響を漢字に当てはめた奇妙な名をつけた文豪森鴎外が名付け親だったことを知れば、なるほどなあと思う。
槐多は自分のこんな名について、特別に何も言ってはいないけれど、けっして嫌ってはいなかっただろう。だれとも似ていないその名のように、自分の短かった人生を、さえにも教えられずに自らを自らで教育して、だれとも違ったように生きようという意識は、ごく幼い時期からはっきりしていた。彼が通り過ぎるその周囲の空気がどこかしら異質で密度が濃いことは、大人たちの方がよく気づいていて後世恐るべしと、ひそかに感じていたのである。
「信州風景」は、こんな槐多の二十一、二歳のころの作品で、彼が亡くなったのは一九一九年だから、もう早い晩年の作品ということになる。すでに不規則な生活で健康を害し、身体は徐々に衰えていく時期にあたるが、作品にはそんな兆候はひとかけらもない、というか、逆に、この風景は槐多の身体から発する太陽光線によって、力強く紙の上に生み出されている。「光のような強さ」は、彼がになによりもまず願っていた自己のイメージだった。 (東俊郎)