慶長九年閏八月二十四日付前田利長知行宛行状(宛所不明)
けいちょうくねんうるうはちがつにじゅうよっかづけまえだとしながちぎょうあてがいじょう(あてどころふめい)
概要
利長の花押入りの知行宛行状。宛名は不明であるが、分国の内30石を加増するとある(同日付で丹羽権平宛に50石加増のものがある(石川県立歴史博物館(丹羽家文書)蔵)。
加賀藩士で八家に次ぐのが人持(70家あり、1,000石以上の禄)で、それに次ぐのが平士で藩臣の中核を成した(知行は50石より2,050石におよび1,400家あった)。平士以上の藩臣は、藩主より知行宛行状と知行所の書かれた知行所付を受けて知行が決定した。
慶長9年は、利長の当主として末期の頃で、翌10年、利長は利常に家督を譲り、富山城に隠居している。慶長9年、能登で10ヶ村程度の村が組織され、加賀藩特有の農民支配組織「十村」が始められている。
【釈文】
為加増以分国
之内丗石之所
令扶持候全
可令知行之
状如件
慶長九年
閏八月廿四日利長(花押)