西山御殿跡(西山荘)
にしやまごてんあと(せいざんそう)
概要
西山御殿跡(西山荘)は,水戸藩2代藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が隠居した後に居住した邸宅跡である。関東平野最北の谷津の最深部付近に位置する。光圀は寛文元年(1661)に藩主となり,『大日本史』の編纂を始めたことで知られる。元禄3年(1690)に隠居を許され,その後この地に移り住み,茅葺に土壁の簡素な建物に居住した。郷の入口に架けた橋を自ら「桃源橋(とうげんきょう)」と名付けたことからも,光圀がここを理想郷と考えていたことがうかがえる。光圀は御殿の周辺の山に鹿を,田に鶴を放ち,薬効のある草木を多数植えた。御殿での光圀は「西山隠士(せいざんいんし)」などと称し,領内の巡検や,文化事業に取り組む一方,『大日本史』の校閲などの作業を行った。光圀の死後建物は解体されたが,享保元年(1716)に再建された。この建物は文化14年(1817)に焼失したものの,文政2年(1819)に光圀居住時の三分の一の規模で忠実に再現されて残っており,敷地全体は現在「西山荘」と呼ばれている。御殿の周囲には2つの池,滝,遙拝石,突上御門などを備えた庭園があり,また紀伊徳川家より贈られたという熊野杉の木立がそびえる。このように,光圀が理想とした景観が今日までよく残されているとともに,『大日本史』を自ら校閲した記念碑的な場所として重要である。