花筐公園
かきょうこうえん
概要
越前武生の東方約6kmに位置する花筐公園は、岡太神社の境内とその背後の傾斜面を含む範囲に展開し、江戸時代末期からサクラの名所として知られてきた。
弘化元年(1844)に大和の吉野より数十本のサクラを移植し、「桜ヶ丘」と呼んだのが公園のはじまりとされる。明治28年(1895)の台風被災後に整地されるとともにソメイヨシノが補植され、サクラの名所として現状に見る公園の原形ができあがった。大正年間にはサクラの植樹区域が神社の境内から切り離され、大正15年(1926)には旧粟田部町の町営公園となった。さらに、昭和10年(1935)には「花筐公園保勝会」が設立され、園内の周回路の整備等が行われた。第二次世界大戦中はサクラが伐採され、公園は食糧生産のための畑地として開墾されたが、戦後、都市公園整備事業を通じて公園の美観はみごとに復活した。今回の登録に係る区域は、岡太神社境内とその周辺の都市公園の一部を含む区域である。
この地は、6世紀前半に在位した継体天皇の恋愛を主題とする世阿弥の謡曲「花筐」の舞台とされ、岡太神社では毎年2月に継体天皇の即位関連の祝祭儀礼である「蓬莱祀」が行われている。また、園内には、大正時代から昭和初期にかけて活躍した詩人で、昭和2年(1927)に粟田部町の小学校に音楽担当教員として勤務した野口雨情にゆかりの四阿が再建され、「山月楼の亭」として公園の良好な風致の一端を担っている。
以上のように、花筐公園は江戸時代末期のサクラの名所を母胎として、近代から第二次世界大戦後にかけて整備の進んだ公園であり、今日なお保健・休養の場として重要な機能を持つことから、その公園史上の意義は深く、風致に富んだ優秀な景趣は造園文化の発展に十分寄与しているものと考えられる。