難波宮跡
附 法円坂遺跡
なにわのみやあとつけたりほうえんざかいせき
概要
大阪市街の東辺、南北に長く連る上町台地は、早くから開発されていたところであって、古史にしばしば見える難波の地は、ここに求むべきであろう。
続日本紀聖武天皇天平16年2月の条に「今以難波宮定爲皇都」と見え、難波宮は首都となったが、翌17年5月には都は平城に移されている。
この故地は明らかでなかったが、最近上町台地の北端部、大坂城外堀の南方程近いところにおいて、奈良時代の朝堂院の大極殿、小安殿、内裏の大安殿の跡等が檢出された。
大極殿は、南北約21メートル、東西推定約42メートルの基壇を有し、その南面と北面にはそれぞれ三ヶ所ずつの階段があったと認められる。この北に近く南北約12メートル、東西約33メートルの基壇があり、小安殿の跡と認められる。
大極殿の南方は広場をなし、かつ小安殿の東面には、廻廊の遺構が遺存し、彼此合わせ考えて大極殿を中心として廻廊が繞っていたと察せられ、広場の西南隅に東西に延びる雨落溝が発見されている。すなわちこの地域は、朝堂院の大極殿地区であり、この南方に朝堂等が建てられていたのである。
この大極殿地区の北方には、北面は詳かではないが、南、東および西の三方に掘立柱の廻廊を繞らす内裏があり、その中央部に掘立柱の跡によって桁行(東西)9間、梁行(南北)4間と認められる建物、すなわち大安殿の跡がある。また西廻廊の外側には周垣の一部と推定される南北に延びる築地の跡がある。
ここに注意すべきは、上記の遺跡と或いは複合し、或いは独立し、しかも大極殿・大安殿等と中軸線を等しくする建物遺構(掘立柱穴・石敷等)が檢出されていることであって、その状況により、聖武天皇以前のものと認められ、しかもその特殊かつ雄大な規模、配列から見て、これも宮殿の遺跡と察せられる。
元來難波の地には、難波長柄豊碕宮以後も、陪都の如きものとして、難波宮が存続したと認められ、摂津職の名もこれに由来する。その間聖武天皇の御代には皇都ともなったのであるが、延暦12年3月「難波大宮」は廃され、摂津職も摂津国と改められている。この特異な意義を有する難波宮について調査が行なわれ、調査は継続中で全貎をつくしているとはいえないが、聖武天皇の難波宮の主要部が明らかにされ、学術上極めて意義あることと認められる。
現在地は、市街、特に建設途上にある官庁街中にあり、遺跡の湮滅を防ぐことは急務であるが、反面大阪市におけるこの地域の現代的性格を考慮し、目下のところ、保存の対象として聖武天皇難波宮の大極殿地区と内裏中大安殿跡を指定しようとするものである。