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平安宮跡
 内裏跡
 朝堂院跡
 豊楽院跡

へいあんきゅうせき
 だいりあと
 ちょうどういんあと
 ぶらくいんあと

概要

平安宮跡
 内裏跡
 朝堂院跡
 豊楽院跡

へいあんきゅうせき
 だいりあと
 ちょうどういんあと
 ぶらくいんあと

史跡 / 平安 / 近畿 / 京都府

京都府

京都市中京区、上京区

指定年月日:19791222
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

平安宮は平安京の北部、朱雀大路の正面にあり、東西八町南北一〇町の地を占めている。平安宮の正門である朱雀門の中に入ると、正面に国家の正式な儀式を行う朝堂院がある。朝堂院の西側には、朝堂院とよく似た構成の院がもうひとつ並んでいる。ここを豊楽院といい、豊楽院は天皇が公的に宴会する所であり、大嘗会や、正月七日、一六日節会などの〓(*1)宴や射礼などが行われた場所であった。豊
 楽院内には、周囲築地で囲まれた細長い内郭の北に正殿である豊楽殿が南面して建つ。
 昭和六十二年十月から昭和六十三年一月にかけての発掘調査(約四五〇平方メートル)で豊楽院の正殿である豊楽殿の遺構が発見された。遺構は、豊楽殿の北辺中央から西側にかけての部分で、その検出遺構は壇正積基壇跡・階段跡・礎石抜き取り跡・北廊跡・地鎮跡等である。
 豊楽殿は凝灰岩壇正積基壇の上に建つ礎石建物で、桁行九間(一三一尺)、梁行四間(五四尺)、四面廂付の東西棟である。柱間寸法は身舎の桁行一五尺、梁行一四尺等間、廂は桁行・梁行とも一三尺であり、軒の出は一五尺と推定される。基壇の残存状態は良好で、礎石は残っていないがその据付位置を確認できた。礎石据付跡は一辺二・二メートルから二・四メートルの方形である。階段は基壇北辺部の中央間と中央間から西へ三間目で検出された。中央間階段は、九世紀のある段階で壊され、豊楽殿後方の清暑堂に連なる北廊の基壇が造られている。この北廊西側からは、地鎮に用いたと考えられる土壙を検出した。土壙の中から三足盤を含む土器が三点出土している。
 以上のように、平安宮豊楽殿跡は平安宮の中心部を構成する建物跡であり、さらに平安宮跡内の朝堂院・豊楽院の中心部分の諸建物の中で遺構を現在確認しているのは豊楽殿のみである。豊楽殿跡の遺構は、豊楽院や大極殿の研究にも重要な資料を提供するものであり、その学術的価値は極めて高い。よって、史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

S54-12-031[[平安宮内裏内郭回廊跡]へいあんきゅうだいりないかくかいろうあと].txt: 平安宮は、延暦13年(794)からはじまり、わが国の古代宮殿のなかで、もっとも長く維持・経営されたところであって、その遺跡はすべて、京都の市街地に埋もれている。
 平安宮跡の発掘調査は昭和30年代から本格的にはじめられ、38年、44年、48年の調査により回廊跡が検出された。遺構は凝灰岩の壇上積基壇が東西幅約12メートルで南北27メートルも連続することが確認され、年中行事絵巻等によって、天皇の日常の居住空間と政治の場である内裏に特有な[[築地]ついじ]回廊の西側の基壇であることも判明した。
 築地回廊は、築地に大屋根を載せ、回廊を内と外とに区分し、晴雨にかかわらず衛士が巡回できるようにした厳重な囲壁である。他の遺跡では、今までに、平城宮跡・長岡宮跡で発掘され、この築地回廊跡の発見により、内裏であると断定する証拠となった重要な遺構である。
 平安宮跡は、京都の市街と重なり、町家の建て替え等に際して多数の発掘調査が実施されてきたが、近世初頭の豊臣秀吉による聚楽第建設およびその破却による攪乱が激しいなかで、当該部分の遺構残存状況がもっとも良好である。

延暦13年(794)に桓武天皇により長岡京から遷都された平安京の北辺中央に位置する我が国最後の都城跡。既指定の平安宮豊楽殿跡の北側で、清暑堂跡、及び豊楽殿との間を繋ぐ廊跡が発見されたため、既指定の平安宮内裏内郭回廊跡と一体で保護を図る。

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