水郷柳河
すいきょうやながわ
概要
筑後川の河口付近にあたり,沖端川(おきのはたがわ)が有明海へと注ぐ低地には,多くの童謡の作詞で知られ,明治期から昭和初期にかけての日本の代表的な詩人として名高い北原白秋(きたはらはくしゅう)(本名隆吉(りゅうきち),1885~1942)の故郷柳河とその周辺の漁村が広がる。白秋の生家が残る沖端(おきのはた)の漁村及び若き日を過ごした柳河の旧城下の界隈を縦横に巡る掘割(ほりわり)の水面,それらに臨んで深い影を落とす三柱神社(みはしらじんじゃ)・水天宮(すいてんぐう)などの神社境内の樹叢,水面との緊密なつながりを持つ敷地構成・風致に特質がある白秋(はくしゅう)生家(せいか)及び並倉(なみくら)(竝倉)などは,新進の詩人としての地位を確立した抒情小曲集『思ひ出』から,田中善徳(たなかぜんとく)の撮影による写真に詩歌を付した遺稿『水の構圖(こうず)』に至るまで,白秋が数多の作品に描き,それらを生み出す原点となった優秀な風致景観を構成している。白秋は,『思ひ出』において水郷柳河を「静かな廃市(はいし)」と呼び,「さながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)」と表現した。白秋の詩作活動の背景には,今や静かに廃れ行こうとしつつも,なお光彩陸離(こうさいりくり)たる郷里柳河の水景への強い懐旧の念があった。
水郷柳河の掘割の水面とそれらに臨む神社境内の樹叢などは,白秋の詩作の源泉となった優秀な水景の風致を誇ることから,その観賞上の価値及び学術上の価値は高い。