棚底城跡
たなそこじょうあと
概要
棚底城跡は、天草諸島上島(かみしま)南部に聳える倉岳(標高682m)から南に派生する山稜の端に築かれた中世の城跡。室町時代の天草地域では、天草五人衆と呼ばれる国人が抗争を繰り返し、棚底城跡は五人衆の上津浦(こうつうら)氏と栖本(すもと)氏の抗争地として『八代日記』に散見し、天文13年(1544)まで上津浦氏一族が在城、その後栖本氏の手に落ちるが上津浦氏が奪回を試み、永禄3年(1560)に相良氏の斡旋により再び上津浦氏に帰したことが知られる。城跡は山稜の尾部に東西約340mの規模で作られた8つの郭からなり、天草地域では例外的に複雑な縄張りである。Ⅰ郭では大型建物跡や5列の小柱穴列遺構等、岩盤を掘り込む柱穴群(ちゅうけつぐん)が見つかった。出土遺物から城跡の年代は、14世紀後半から15世紀中頃のⅠ期、15世紀後半から16世紀前半のⅡ期、16世紀中頃から後半のⅢ期に大別される。日常生活に使用された貿易陶磁器類、中国産天目碗・石製風炉・茶臼等の茶の湯道具や碁石等が出土し、注目される。
このように、肥後天草地域の政治・軍事の変遷を知る上で貴重な遺跡である。