津和野弥栄神社の鷺舞
つわのやさかじんじゃのさぎまい
概要
この鷺舞は古く京都の祇園会【ぎおんえ】で演じられていたが、室町時代に、大内氏が山口の祇園会にこれを移し、さらにこれが津和野の弥栄神社の祭礼にも伝えられたものといわれている。後にこれが一時中絶状態となったが、江戸時代初期に、今度は京都の祇園会の鷺舞を直接移し伝え、それが今日まで継承されてきている。山口をはじめ他にも数か所同様の鷺舞が伝承されているが、古来からの伝統的な姿が最もよく継承されているのはここ津和野のものであって、昭和三十年頃京都の祇園祭において、津和野のこの鷺舞が逆に移入されて再興されている。
この鷺舞は弥栄神社の祭礼として神輿の巡行に供奉する。つまり、七月二十日(古くは旧暦六月七日)には本社から御旅所へ、二十七日(旧六月十四日)には御旅所から本社へ供奉し、その途中一一か所の定まった場所で舞ってきた。鷺舞の行列の次第は、裃姿の警固に守られた一行が、棒振り二、雌鷺一、雄鷺一、羯鼓二、横笛二、小鼓二、締太鼓二、鉦二の順序に二人ずつ並んで続く。本来はその後に小笠鉾一二本、大笠鉾一本が続いたのであるが、現在笠鉾は頭屋【とうや】前に飾るのみで巡行には参加していない。鷺は、雌雄とも白布の単衣に緋縮緬の踏み込み、白足袋、草履で、背に檜板を用いて作った白色の羽根を負い、頭には桐の木の芯に白紙を張って作った一メートルほどの鷺頭を頂く。芸態は、棒振り二名を先頭に、中に雌雄の鷺、後に羯鼓二名が並び、その後に謡い手、囃子方が座すと、まず囃子の演奏が一通り行われ、次に地頭【じがしら】の「橋の上に 降りたー」と発声するのを合図に一斉に動き出す。棒振り、鷺、羯鼓はそれぞれ異なる所作をするが、棒振りはゆっくりと鷺と羯鼓の外周を大きくまわる。羯鼓は位置を動かず、桴を眼前に上げ、蟹が横歩きをするような所作で上体を屈し、また身体を右から左へまわす。中央の鷺は、互いに向かい合い、要所で羽根を広げ、円を描くようにまわり、雄が雌を背から抱くような所作をして終わりとなる。
この鷺舞は、そこに歌われる、「橋【はし】の上【うえ】に降【お】りた鳥【とり】は何鳥【なにどり】 鵲【かささぎ】の 鵲【かささぎ】の……」の歌詞は、京都祇園会のことを扱っている狂言の「煎物売【せんじものうり】」にも歌われており、また永享十年(一四三八)の『看聞御記【かんもんぎよき】』にも同趣意の歌の記載があるなど、古風な京都祇園会の風流の芸態を今によく留めているものであり、わが国芸能の変遷を知る上で極めて重要な伝承である。