旧竹田荘
附 田能村竹田墓
きゅうちくでんそうつけたりたのむらちくでんのはか
概要
田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜めてよく一生面を開き高雅な作品を遺した。
竹田市街南部の小高い丘陵地にあつて敷地の西北隅に門を構へ母屋は中央部より稍々西寄りに建てられている。木造2階建、玄関を西に開き北から東に亙つて庭が廻り東面の庭中には補拙盧草際吟舎及び筆塚等が存する。竹田荘は竹田の没後荒廃に赴いたが昭和7年全般的に修理工事が施されて母屋は補強され、補拙盧、草際吟舎も旧規に從つて再建、筆塚は早く他所に移されていたがまた庭中に戻された。三角亭や池等は■滅して存してないが、主要部はよく旧規を止め、竹田の遺跡として貴重である。
竹田は天保6年8月29日大阪の岡藩蔵屋敷に没し淨春寺(大阪市天王寺区夕陽ケ丘町所在)に埋葬されたが、其子如仙は遺髪を持ち歸り、弘化元年胡麻生の地に葬つた。胡麻生は竹田荘の西南約490m、また形勝の地であつて、墓は大阪の墓に倣つて建てられ総高5尺2寸、正面に「竹田先生墓」と刻し、墓前には天保15年7月中川長裕、帆足杏雨等の献じた石燈篭2基がある。