木造地蔵菩薩立像
もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう
概要
等身の地蔵菩薩像で、針葉樹材(ヒノキか)の割矧【わりはぎ】造になり、表面は錆下地黒漆塗、彩色仕上げとする。構造は頭頂から足〓までを、両腕を含み一材より彫出、両耳後ろを通る線で前後に割矧ぎ内刳(裙底面に抜ける)を施す。両手首先を矧ぐ。彩色は肉身部を白色とし、衣部には各種文様が施されるが、いずれも中世に塗り直されたものである。また右手首先、両足先が後補になり、光背は元来天蓋であったものの転用かとみられるが、台座は製作当初のものである。
近年、像内に久安三年(一一四七)の造立銘が存在することが明らかになり、本像は平安後期の基準作例として注目されるに至った。像内銘には白衣弟子源貞兼および結女日下部氏を願主として、仏師僧快助によって造立されたことが記される。白衣弟子とは在家信者、結女は夫人のこととみられ、いずれも平安後期の造像銘記や経奥書等に散見する用語である。国有(文化庁保管)阿弥陀如来坐像(重文)は銘文により、同じく久安三年に、源貞兼と同一人物とみられる源貞包および結女日下部氏を願主として造立されたことが知られ、またそこには本像のものと共通する文言および人名が見られる。その作風は、国有像の面部が本像に比べ扁平であるなど多少の相違も見られるものの、その目鼻立ちの形や両胸を膨らませる肉付の仕方、浅く鎬を立てた衣文の彫法などがよく似ており、構造技法の点でも本像が両肩外側部まで、国有像では両膝奥まで含んで大きく木取し、前後に割矧ぐことが共通する。等身像である本像は半丈六になる国有像の脇侍としてふさわしく、両像はおそらく、平安末から鎌倉時代にかけてしばしば造立された、阿弥陀坐像の左右に観音および地蔵立像を配する三尊像のうちの二躯であったと思われる。両像の銘文に見える多記氏は丹波国多紀郡を中心とする地域に居住した一族であることから、これらが造立安置されたのは丹波地方と推定され、やや粗放な作風および技法から快助は在地仏師と考えられる。
平安後期の地蔵菩薩像は数多く造られているが、基準作例といえるものは少ない。本像は在銘の地蔵菩薩像では最古の遺品として貴重であり、また当地方における院政期の造像をうかがううえで逸することのできない作例である。