孝恩寺観音堂
こうおんじかんのんどう
概要
孝恩寺観音堂 一棟
寺伝によれば観音堂は行基(六六八~七四九)の開いた四十九院の一つ観音寺と伝えるが、戦国時代及び天正十三年(一五一八)の兵火によって伽藍が焼失し、残っているのはわずかにこの堂だけであるので、詳しいことは分からない。大正時代に孝恩寺に合併された。堂の建立年代もまた不明であるが、様式上、鎌倉時代後期と考えられる。
方五間、寄棟造の堂で、三間の内陣の前に一間の外陣を置く。この部分は内外陣とも鏡天井で、さらにこれらの周囲を一間通りの入側がめぐり、化粧屋根裏となっている。組物は三斗組の比較的簡素なものであるが、内陣では扱いに巧妙なところがあり、また外陣には独特の繰形を持つ手挟を入れるなど、変化のある手法がみられる。組物間の要所に入れられた蟇股は、内部に発達した文様があり、一部には後補がみられるが、この時代の優品に数えられている。
このように和様を基調とした様式であるが、長押を打たず貫を用い、扉を桟唐戸とするなど、新様式の混入も認められ、鎌倉時代の新しい和様の例として重要な意義がある。なお屋根瓦が行基葺となっているのも珍しい。
【引用文献】
『国宝辞典(四)』(便利堂 二〇一九年)