勝尾城筑紫氏遺跡
かつのおじょうちくししいせき
概要
勝尾城筑紫氏遺跡は、鳥栖市北西部に所在する標高501m余の城山とその山麓の谷筋を中心に広がる戦国時代後期の筑紫氏の城下町を含む城館群である。この地は、筑前・筑後に接する交通の要地である。筑紫氏は、少弐氏から分かれたとされる武士で、明応年間(1492〜1501)に当城に入ったとされる。その後、筑紫氏は、周辺の戦国大名と同盟あるいは敵対し、めまぐるしく活動するが、天正14年(1586)島津氏に攻められ落城する。翌15年には筑紫氏は、豊臣秀吉により転封され、当城は廃城となる。平成7年からの鳥栖市教育委員会による計画的な発掘調査の実施により、遺跡の全体構造が明らかになりつつある。勝尾本城跡は、城山山頂にあり、東西約300m、南北約250mを測り、東側には小規模な石材を積み上げた石垣塁線と横堀が見られる。また、南山麓には瓦葺の建物と庭園を伴う館跡が所在し、5つの支城に防備された谷部には城下町が配置されていた。城下町は、長大な堀と土塁によって画された4つの空間があり、それぞれ家臣団屋敷跡、寺社、町屋跡などが所在する。調査の結果、出土した遺物は、輸入陶磁器・国内産陶器・瓦器・瓦などであり、陶磁器の時期は16世紀後半を主体とする。当城跡には、江戸期に描かれた「肥前州基肄郡勝尾山筑紫広門公城跡之図」が残されており、現地とよく照合できる。このように、本遺跡は戦国期における城下町の様子がよく表しており、保存状態が良好であり、戦国期の歴史を考える上で重要である。