新治郡衙跡
にいはりぐんがあと
概要
古郡[ふるごうり]の台地上の畑地に、昭和16年以来の調査によって発見された遺跡で、その範囲は、北は新治廃寺跡(昭和17年史跡指定)に境を接し、南は古郡の部落に及んでいる。この地はかつての新治村で、「常陸[ひたち]風土記」等の文献によれば、常陸国新治郡に属する。この遺跡の建物跡は51棟と推定され、これを東部群13、西部群9、北部群25、南部群4に分けることができ、いずれも数列にかなり整然と配列され、太平洋戦争後、さらに南部に1棟発見された。本遺跡は、文献的徴証から、新治郡衙跡と考えるのが妥当であるが、遺構等の遺存状況は、現耕土下20~30セントメートルに、方形の[[地形]ちぎょう]があり、その周縁を小石や瓦等でつき固め、また、表面に土器片、瓦片、鉄釘片等が散布し、東部群では、中に焼籾、木炭の混入もみられる。礎石の大半は失われているが、6、7の建物跡には、礎石が原位置に遺存するものがあり、その他抜き取られた礎石は、各所に転用されている。新治郡衙跡は、弘仁8年(817)の火災により、不動倉13宇を焼失した記録があり、これを東部群の建物跡に比定する学説もある。また、各国正税帳、上野国交替使実録帳などから各郡の正倉、郡庁官舎が整然と配列されていたことが知られるが、これらの点も本遺跡の性格と良く符合する。