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金田官衙遺跡

こんだかんがいせき

概要

金田官衙遺跡

こんだかんがいせき

史跡 / 関東 / 茨城県

茨城県

つくば市

指定年月日:20040227
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

 金田官衙遺跡は、筑波山の南15km、桜川西岸の沖積低地を望む台地縁辺上に立地する古代の官衙遺跡である。本遺跡から北西に9km桜川をさかのぼった地点には、常陸国筑波郡衙正倉と考えられる史跡平沢官衙遺跡が所在する。昭和34年の桜中学校校庭拡張工事において、総柱の掘立柱建物跡、大量の炭化米が発見されたことから、この地に古代の官衙遺跡が存在することが確認された。昭和59年には、その隣接地の九重東岡廃寺跡と称される遺跡が桜村史編纂のため筑波大学によって発掘調査され、建物基壇、瓦溜まり、井戸などが検出された。平成11年度以降、都市整備公団による土地区画事業に先行する確認調査を茨城県教育委員会及び茨城県教育財団が実施し、金田地区に大規模な古代の官衙遺跡が存在することを確認した。このため、茨城県及びつくば市は、遺跡を現状保存することとし、平成14年度に、つくば市教育委員会が範囲確認調査を行って、遺跡の範囲をほぼ確定した。
 本遺跡は、郡衙関連遺跡と考えられ、正倉院(金田西坪B遺跡)、官衙地区(金田西遺跡)、それに仏教関係施設(九重東岡廃寺)で構成される。正倉院は、台地縁辺部に所在する。幅約4m、深さ約1.3mの溝に区画された最大東西約110m、南北約310mの長方形の範囲に、礎石建物8棟、総柱の掘立柱建物3棟が並んで検出された。また、昭和34年に総柱の掘立柱建物や炭化米が発見された桜中学校校庭は、正倉院の北半部に当たる。8世紀中・後葉には敷地が拡張するとともに、掘立柱建物から礎石建物へ改築されたと想定されている。官衙地区は正倉院の北西に展開する。8世紀初頭に硯、盤などをもつ竪穴建物群が成立するのを嚆矢として、続く8世紀前葉から9世紀前葉には、おおむね4群に分かれる約100棟の掘立柱建物・礎石建物が、4期の変遷をもって展開した後、9世紀中葉には廃絶する。この4つの建物群は、郡庁、厨家、館といった機能を明瞭に示す建物配置や区画施設などをもたず、それぞれ、あまり計画性が高くはない品字状やL字状などの建物配置をみせるといった特徴をもっている。廂付き建物、桁行9間の長大な建物、井戸なども見られることから、郡衙がもつ様々な機能を果たしたものと考えられる。官衙地区の西隣に所在する仏教関係施設は、その詳細な内容は不明ながら、四面廂が付く特殊な建物、基壇建物、多数の瓦の出土などが見られ、瓦の年代などから8世紀前葉から9世紀中葉に存続したものと考えられている。このように本遺跡を構成する3つの施設群は、それぞれ規模や構造を変えながらも、8世紀前葉から9世紀中葉に併存していた。
 なお、本遺跡からは郡名を特定する遺物は出土していないが、『常陸国風土記』の記述、本遺跡と深い関連があると考えられている近隣のつくば市中原遺跡で出土した「常陸國河内郡真橎郷 戸主刑部歌人」と墨書された土器などから、本遺跡を常陸国河内郡の郡衙関連遺跡とする説が有力である。
 以上、本遺跡は、郡衙を構成する正倉院、官衙地区、仏教関係施設を一括して把握でき、郡衙の実態を解明する上で極めて重要であるとともに、掘立柱建物群が機能を明瞭に示す建物配置や区画施設をもたず、官衙地区を構成するなどの特徴をもつ。また、平沢官衙遺跡などとともに、常陸国での古代の地方行政組織や地方支配体制を考える上で重要である。よって史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。

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