文化遺産オンライン

台渡里官衙遺跡群
  台渡里官衙遺跡
  台渡里廃寺跡

だいわたりかんがいせきぐん
だいわたりかんがいせき
だいわたりはいじあと

概要

台渡里官衙遺跡群
  台渡里官衙遺跡
  台渡里廃寺跡

だいわたりかんがいせきぐん
だいわたりかんがいせき
だいわたりはいじあと

社寺跡又は旧境内 / 飛鳥 / 奈良 / 平安 / 関東 / 茨城県

茨城県

古代

水戸市

指定年月日:20050714
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

 台渡里廃寺跡は、茨城県東南部、那珂川右岸の標高約30mの台地北辺に所在し、観音堂山地区と南方地区にからなる古代寺院跡である。遺跡の北方には長者山地区があり、官衙の正倉と考えられる礎石建物群を確認している。昭和14年から18年には高井悌三郎が調査を実施し、昭和46年から平成16年にかけての水戸市教育委員会による断続的な確認のための発掘調査により、観音堂山地区と南方地区の様相がほぼ明らかとなった。
観音堂山地区では、区画溝に囲まれた東西126m、南北156mの範囲内に、掘込地業をもつ礎石建物の基壇を6基確認した。この地域は南に向かって下がる地形で、それを版築状の整地土で平坦に造成している。それぞれの基壇建物の性格については明確でないところもあるが、西側の瓦積基壇をもつ四面廂付南北棟建物が講堂、その北東に並ぶ建物が金堂と塔、東の建物が中門と推定され、それらを回廊又は築地が囲む東西を主軸とする伽藍配置であると考えられる。創建は7世紀後半から末頃で、8世紀後半に伽藍が最終的に整備されたと推定され、9世紀後半には火災により廃絶する。
南方地区は、観音堂山地区の約100m南方にある。塔は基壇上に一部の礎石が残存し、柱間が1.5m、3間×3間の建物である。基壇は掘込地業を行って築成し、版築土中から9世紀末頃の土器が出土した。金堂は東西約13m、南北7.2mの基壇をもつが、削平を受けている。伽藍中軸線から東西に120mほど離れた地点では、寺院地の東辺、西辺を画する溝をそれぞれ検出した。この地域は8世紀から9世紀には竪穴住居等があり、鋳造関係遺物が出土したことから観音堂山地区の寺院の維持、経営に関わる施設の存在が考えられるが、寺院地の区画溝の掘削に伴いその機能を停止する。南方地区では塔と金堂周囲の区画溝は全周せず、講堂に比定できる建物も検出していない。また、瓦の出土量も僅少であることから、観音堂山地区の伽藍焼亡後、ここに寺院を再建しようとしたものの、造営を途中で停止した可能性がある。
出土遺物は軒瓦や文字瓦を含む多量の瓦が主体で、その中で観音堂山地区から出土した「徳輪寺」銘の文字瓦と「仲寺」銘の墨書土器が注目される。従来、観音堂山地区を官衙政庁とする意見もあったが、調査によって遺構の概要が明らかとなり、北側に隣接して官衙の正倉と推定される遺構があることから、台渡里廃寺は常陸国那賀郡衙に関連する寺院であった可能性が高い。その他、仏像鋳型や瓦製相輪、相輪を描いた瓦や漆塗鉄鉢形土器等、多彩な仏教関連遺物が出土している。
台渡里廃寺跡は、7世紀後半から10世紀初頭にかけての二つの寺院跡である。その規模、配置等を明確な形で検出し、地区を移転して建替えたことが推定され、常陸国那賀郡衙に関連する寺院であった可能性が高い。このように、台渡里廃寺跡は関東地方における初期古代寺院の造営から廃絶に至る過程を良く示すものとして重要である。

関連作品

チェックした関連作品の検索