荒園清秋
概要
25 小川芋銭(1868−1938) 荒園清秋 1928年
東京赤坂の牛久藩邸に生まれ、幼年に牛久村に移住。幼名不動太郎、のち茂吉。1880年頃上京、本多錦吉郎の画塾彰技堂で洋画を学び、のち日本画を独修。93年牛久に帰り農業に従事しながら『いはらき』など郷里の新聞に漫画を掲載しはじめる。1915年平福百穂らと珊瑚会を結成、17年から日本美術院同人となる。
芋銭が本格的に日本画の道を歩んだのは50歳を過ぎた頃からである。本図は芋銭還暦の年に描かれた院展出品作。自宅から牛久の沼を眺めた風景が、あたかも草木や石が主役かのように描かれる。牛久沼にまつわる水魅、河童などの精霊たちを主題とする作品を多くのこした芋銭ならではの視点である。一般には理解されづらい面もあるが、ユニークな芋銭世界の典型を示す水墨画といえよう。芋銭画に深い理解を示した評論家の外狩素心庵は、発表当時「人間の魂の最後の安住の世界を彷彿させるかのようだ」と適評を残している。