正保伊予国絵図
しょうほういよくにえず
概要
絵図の隅には、松山藩が絵図元をつとめたことを表す「伊豫國絵図 松平隠岐守」の記載がある。村は小判形の村形で表示、その中に村名と村高を記しているが、その村高は慶安元(1648)年の「伊予国知行高郷村数帳」に一致している。村名の前には符号を入れることで所領区分を示している。村形内部の郡ごとの色分けはされていないが、郡境に墨線を引くことで、郡区分を示している。
城下については方形の枠で図示され、その中に城名、陣屋名と領主の名前が記されている。街道、航路ともに朱線で、街道については大道と小道の違いを朱線の太さで描き分け、一里山(塚)を記入している。川については川幅・深さ、「舟渡り」「歩渡り」などを注記している。
絵図の余白部の畾紙(らいし)には、郡別石高、総高、領主一覧が記されている。領主一覧には「いよのおくにゑつ」の符号とともに、その下に領主名が示されている、そのうち、小松藩に関しては、所領一覧に「一柳主膳」、絵図中の方形の枠内に「一柳山城守」と一致しない。いずれも小松藩2代藩主一柳直治のことを指すが、直治が山城守に叙任されるのは万治3(1660)年であることから、寛文期(1661~73年)に幕府に再提出した国絵図の控図として松山藩が作製したものと考えられる。
2枚目の画像は、絵図の修復の際に別置となった旧裏打紙の墨書であるが、、村名を記す村形には、本来は郡ごとに色を変えて彩色するが、幕府への提出時期が迫り、提出用の絵図は彩色したものの、控図には凡例に当たる目録部分だけを彩色し、一つ一つの村形には彩色を施さなかったことが記されている。この記述からも、寛文期に絵図元の松山藩が幕府の求めで、再提出用の「御本絵図」と同時並行で作製していた控図であることがわかる。