越中砺波郡行兼村代肝煎仰付方願書
えっちゅうとなみごおりゆきかねむらかわりきもいりおおせつけかたねがいしょ
概要
越中砺波郡行兼村代肝煎仰付方願書
えっちゅうとなみごおりゆきかねむらかわりきもいりおおせつけかたねがいしょ
ゆきかねむらくみあいがしら まつべえなど19にん
富山県高岡市
安政2年5月/1855年
紙本墨書・額装
縦24.2cm×横84.0cm
全体(額):縦45.5cm×横124.5cm
1通
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-251
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)
越中砺波郡行兼村(現富山県高岡市戸出行兼)の肝煎(村長)任命願い書。当時の農村の実態の一端を示す史料である。
肝煎安左衛門は文政10年(1827)8月より肝煎役に任命され務めてきたが、病気になり職務を務められなくなり、天保7年(1836)4月に退役を願い出て承認された。代り肝煎は同人の息子で組合頭安之丞(数え8歳)を任命して下されば、安左衛門の持高を生前相続(譲高)して、安之丞の名を安左衛門と改めたい。先だって願い出たところ承認された。この安左衛門は今年27歳になり、居村(行兼村)にて持高64石3斗6升、岡御所村にて懸作高(他村での持高)2石3斗、油屋村にて7石、合計73石6斗6升を管理している。ご用勤めができる確かな者なので、村民一同納得の上お願い申し上げる、というもの。
行兼村組合頭・松兵衛、同村百姓12名、周辺村々の懸作百姓6人の計19人が十村(大庄屋)宮丸村次郎四郎(現砺波市宮丸在住の十村・安藤氏)に宛てている。通常、この十村が藩の郡奉行に宛てた奥書やその上局の算用場奉行の裏書があるが本史料には無い。
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【釈文】
書付を以御願申上候
行兼村安左衛門義、文政十年八月ゟ肝煎役被仰付相勤来候所、病身ニ相成御用相勤兼候ニ付、天保七年四月退役御願申上御聞届ニ付、代肝煎(①)之義同人せかれ組合頭(②)安之丞江被仰付被下候ハヽ、安左衛門持高譲高(③)ニ仕安之丞名安左衛門与相改、代肝煎御願申上度段、先達而奉願上候所御聞届被成下候、就夫当安左衛門義今年弐拾七ニ罷在居村ニ而持高六拾四石三斗六升、岡御所村ニ而懸作高(④)弐石三斗、油屋村ニ而七石都合七拾三石六斗六升支配仕、御用可相勤慥成者ニ御座候ニ付、同苗(⑤)一統納得之上御願申上候間、代肝煎被仰付可被下候、以上、
安政二年五月
行兼村組合頭 松兵衛
百姓 義右衛門
四郎兵衛
三郎左衛門
孫 六
八兵衛
松次郎
覚 次
小三郎
与三次郎
与三七
栄次郎
次 平
三郎丸村ゟ懸作 市右衛門
放寺村ゟ懸作 理右衛門
同村ゟ懸作 彦右衛門
石丸村ゟ懸作 久兵衛
同村ゟ懸作 彦 市
岡御所村ゟ懸作 龍右衛門
宮丸村
次郎四郎(⑥)殿
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【現代語訳】
文書を以てお願い申し上げます。
行兼村安左衛門は、文政十年(一八二七)八月より肝煎役に任命され務めてきましたところ、病気になり職務を務められなくなりましたので、天保七年(一八三六)四月に退役をお願い申し上げ、ご承認されましたので、代り肝煎は同人の息子で組合頭安之丞を任命して下されば、安左衛門の持高を生前相続(譲高)して、安之丞の名を安左衛門と改め、代り肝煎をお願い申し上げたく存じます。先だってお願い申し上げましたところ、お聞き届けくださいました。それについてこの安左衛門の件ですが今年二十七歳になり、居村(行兼村)にて持高六十四石三斗六升、岡御所村にて懸作高(他村での持高)二石三斗、油屋村にて七石、合計七十三石六斗六升を管理しています。ご用勤めができる確かな者でございますので、村民一同納得の上お願い申し上げますので、代り肝煎の任命してください。以上。
(以下略)
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【用語解説】
①肝煎(きもいり)…村肝煎、肝煎役とも。加賀藩では村役人の代表者で、頭役であり一村一人が原則であった。他藩では東日本では名主,西日本では庄屋ということが多い。肝煎は加賀藩のほか、東北諸藩で用いられた。村内全百姓の推薦を受け十村に願い出て改作奉行の認可を受けて就任した。寛文八年(一六六八)に五ヶ村組合肝煎の同意を得て十村・改作奉行へ申請する道もできた。その同意も得がたい時は、御扶持人十村と組十村が奉行に申請した。これを見付肝煎といった。また小村で適任者がいなく近村の肝煎がいつも兼務する時は寄肝煎といい、一時兼務する時を兼帯肝煎といった。また他村より引越してその村に移住した肝煎を引越肝煎といい、臨時に他村の組合頭などを加えるのを当分加入肝煎といった。これは該当村の立て直し等の場合で十村が任命した。肝煎扶持米が支給された。村高二七七石の行兼村肝煎の扶持米は三石五斗(高三〇〇石までは三石五斗)。肝煎の下の組合頭・百姓惣代と合わせて村方(地方/じかた)三役という。
②組合頭(くみあいがしら)…与合頭とも書く。村肝煎を補佐する役で、村の大小により二人から一〇人近くまでいた。五人組の組頭の代表として選ばれた向きもあり、古くからの約だが史料初見は承応三年(一六五四)。村内で人選のうえ、組裁許の十村が任命。給銀・給米はなく、御用で動いた時に村万雑より実費を支給。寛文五年(一六六五)二月、藩主在国の年だけ三〇〇文藩より下賜された。他領では組頭といわれた。
③譲高(ゆずりたか)…百姓相続は原則として高支配者である高主の死亡に限られていたが、高主が老衰・病気・不具者・乱心等で耕作能力を喪失し、年貢拠出不能となった場合に相続を許し、この生前相続を譲高といった。
④懸作高(かけさくだか)…懸作は百姓が自分の住んでいる村以外の他村の高を所持したこと。懸作高はその高(多くは購入(取高)される)。懸作百姓は懸作高を持つ他村の百姓のこと。掛作とも書く。
⑤同苗(どうみょう)…同名とも書く。⑴村民仲間のこと。⑵五ヶ村組の肝煎同士をさすこともある。
⑥宮丸村次郎四郎(みやまるむらじろうしろう)…現砺波市宮丸在住の十村・安藤家。元和・寛永の頃、加賀藩の初期十村役を務めた開発村(福岡町)左衛門家の分家と伝えられ、土地の豪農として栄え、寛永一二年(一六三五)から幕末まで十村役として活躍した。役儀初代は次郎左衛門で、金屋本江村(小矢部市)金右衛門(長田氏)の支配した十村組を継承した。二代治郎四郎は、はじめ砺波郡若林組を支配したが、藩の改作法施行期(一六五一~五六年)には重用されて十村最高位の無組御扶持人に昇格し、砺波郡農政推進の指導者の一人となった。三から六代はいずれも無組御扶持人並十村。五代長次郎の時持高は九一三石に及んだ。七代次左衛門は十村分役の新田裁許役、御扶持人十村並ののち、五箇山の利賀谷組裁許十村を経て、文化六年(一八〇九)無組御扶持人十村に昇格している。八代次郎四郎は天保一〇年(一八三九)より砺波郡若林組の十村を務め、一〇代次郎四郎も明治三年(一八七〇)の十村制度廃止まで同組支配を続けた。
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〇主要参考文献
・『加越能 近世史研究必携』田川捷一編著、北國新聞社、二〇一一年第二版
・『富山県姓氏家系大辞典』竹内理三 [ほか] 編、角川書店、一九九二年