海陸戦闘図(対幅)
かいりくせんとうず
概要
日清戦争の従軍体験をもとに、右幅に海戦、左幅に陸戦の様子が描かれている。戦闘の前線が卓越した技能により活写されている。米僊のこの様な数ある日清戦争画は単に報道記録にとどまらず、当時の日本の国際社会における急速な役割の変化を全世界に向けて印象付けるものであった。
米僊は嘉永5年(1852)、京都生まれ。本名・満寛。鈴木百年に師事し、幸野楳嶺らと京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の設立建議に加わり、明治13年(1880)の開校と同時に教員となる。第一回内国絵画共進会の審査員を務めたほか、京都青年絵画研究会、京都美術協会などの設立に尽力し、京都画壇の発展に貢献。
明治23年(1890)に徳富蘇峰に請われ、東京の国民新聞社に入社して挿絵を描いた。シカゴ万博や日清戦争に特派員として『日清戦闘画報』などの優れた報道記録画を描く。のちに失明し、俳句や評論活動に専念した。
北陸地方との縁としては、明治30年9月から翌年11月まで金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)において教鞭をとっていることが挙げられる。