勝画楼
しょうがろう
概要
西側の広間棟と東側の勝画楼棟で構成された建造物である。
広間棟は、もとは享保年代以前に建てられた法蓮寺(鹽竈神社別当寺)の客殿であり、これを減築したものと認められる。
勝画楼棟は、広間棟の東側に増築されたものであり、建築様式や文献考証から江戸時代中期以降に建てられたと考えられている。
勝画楼という名称が文献にあらわれるものとしては、安永3(1774)年の「風土記御用書出」などがあげられる。これによれば、法蓮寺の境内には東向きの書院があり、その室内には仙台藩5代藩主伊達吉村が揮毫した扁額「勝画楼」が掲げられていたという。
寛政4(1792)年の「奥鹽地名集」によれば、勝画楼からの眺望は「勝れたる景色は画くとも筆に尽くしがたく、語るとも言葉に述べがたし」というものであり、仙台藩の絵師・菅井梅関も「勝画楼望月」でここからの眺望を詩情豊かに描き出している。
明治9(1876)年の明治天皇東北巡幸に際しては、一行の行在所として使用された。
勝画楼が現在の形になったのは明治期以降であるが、建物自体は建築様式や文献考証から江戸時代中期以降に建立されたものである。法蓮寺に関し唯一現存する遺構として評価でき、幾度かの改修を受けながらも江戸時代中期から現存する建造物である。