乍恐書置之覚
おそれながらかきおきのおぼえ
概要
2代佐賀藩主鍋島光茂(1632-1700)は子女42名に恵まれた藩主で、側室の子である宗茂(光茂の第31子/1686-1754)を将来の藩主に立てて欲しいと重臣らへ遺言していた。ところが光茂の跡を継いだ3代鍋島綱茂(1652-1706)は、弟にあたる宗茂を佐賀藩の重臣家のひとつ神代家(くましろけ)へ養子に出した。さて、武士道論「葉隠」の口述者として知られる山本常朝は2代鍋島光茂に仕えた佐賀藩士。常朝は光茂逝去を機に佐賀城下郊外の金立(きんりゅう)の地に隠居し、13回忌までは毎月16日の月命日には菩提寺である高傳寺への参詣を欠かさなかったほど光茂への忠心を保持し続けていた。
「乍恐書置之覚」は正徳5年(1715)、神代家の当主となっていた宗茂に対し、山本常朝が与えた将来の藩主としての心得書。「差し出がましいのは承知の上だが、日頃から宗茂より御重恩を賜り懇ろにして頂いていることをありがたく思うため、せめてもの報恩として少しでも心得になれば」との想いで、「御数寄之道に御用心」、「釈迦・孔子よりも日峯様(佐賀藩祖鍋島直茂)を御手本に」など、常朝の考える藩主としての心得を具体的に示している。なかでも「御孝行御粉骨を尽くさるべし」の項では、「もし(現藩主の)御隠居の時期が延引したとしても、少しも焦る気持ちを持たぬよう、かねて覚悟しておくべき」と諭す。
本資料の末尾にある成稿年月日は、「正徳四年午五月十六日」であり、光茂の命日にあたる。光茂への忠心を保持し続けていた山本常朝は、宗茂を将来の藩主にという光茂の切なる望みを知っていたものと考えられ、故にその命日の日付でこのような書付けを記して宗茂に進呈したのであろう。とはいえ、宗茂が次代藩主となることが確定していない時期に、その期待を文章として認めることは躊躇されたのだろう。常朝は自分の死後に見るようにと差し出した。しかし宗茂はすぐに見て、川久保から程近い常朝の庵に御礼に訪れている(「常朝書置・同打解咄」野中家蔵本『佐賀県近世史料』第八編第一巻、佐賀県立図書館、平成17年)。なお箱表に「大秘書 他見禁制」と書されているのはそのためであろう。