中野神右衛門清明年譜
なかのじんえもんせいめいねんぷ
概要
佐賀藩士山本常朝が編集した祖父中野清明(1555~1620)の年譜で、正式には「中野神右衛門清明 法名照真院浄通一代御奉公之荒増聞書」という。執筆は武士道書「葉隠」の口述と併行して行われ、正徳4年(1714)4月9日の奥書がある。これによると本書の目的は「中野一門中、子々孫々迄、御重恩の有り難きを弥以て忘却なく、御奉公の励みにも罷り成り候えかし」とあり、中野一門が藩主鍋島氏から蒙った恩恵を忘れず今後も忠節を尽くすことを願ったものと考えられる。
戦国時代に佐賀城を拠点として肥前を治めていた龍造寺隆信が戦死した沖田畷の戦いや、文禄・慶長の役など数々の戦陣における清明の武功が、内容の中心を成している。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、佐賀に戻っていた鍋島直茂に対し、中野清明が諸情報を報告している。これを受け、「直茂様思し召し入り御座候て、八戸の十間堀、神右衛門奉行仰せ付けられ、御ほらせ成られ候」として、清明を責任者として佐賀城下北側の外郭ラインである十間堀の整備を直茂が命じている。中野清明には六男二女があり、長女に水町丹後の二男を婿養子として迎え、中野内匠(忠兵衛)と称した。長男が中野将監(又右衛門)で、368石の知行は中野内匠と中野将監に均等に二分して分け与えられている。そして清明の二男が山本助兵衛の養子となる神右衛門重澄、すなわち山本常朝の父である。