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万年自鳴鐘〈田中久重作/〉

まんねんじめいしょう〈たなかひさしげさく/〉

概要

万年自鳴鐘〈田中久重作/〉

まんねんじめいしょう〈たなかひさしげさく/〉

歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 江戸 / 関東 / 東京都

田中久重

東京都

江戸/1851

1基

独立行政法人国立科学博物館 東京都台東区上野公園7-20

重文指定年月日:20060609
国宝指定年月日:
登録年月日:

株式会社東芝

国宝・重要文化財(美術品)

幕末・明治前期における先駆的な機械工作技術者田中久重【ひさしげ】(一七九九~一八八一)が嘉永四年に製作した天文や暦の表示を含む多機能時計である。
 田中久重は久留米藩の鼈甲師の家に生まれた。幼少時から発明の才にたけ、久留米絣の改良に貢献したり、からくり人形の興業を行い、「からくり儀【ぎ】右衛門【えもん】」の名を博した。技術修練の旅に出た後大坂に居を構え、懐中燭台【しょくだい】や無尽灯【むじんとう】の製作販売を手がけている。また、大坂から伏見、京都へと居を移す間に修学にも努め、弘化四年(一八四七)には土御門【つちみかど】家に入門して天文や暦学を学び、嘉永二年(一八四九)には嵯峨御所【さがごしょ】から近江大掾【おうみのだいじょう】の名の使用を許す永宣旨を受けた。蘭学者広瀬元恭【げんきょう】のもとで洋学の知識も吸収している。
 久重がこれらの知識・技術を結集して製作し、京都四条烏丸に設けた機巧堂で公表したのが万年自鳴鐘である。当時季節によって一時【とき】の長さが変わる不定時法を表示する和時計は、頻繁な微調整が欠かせなかったが、久重は一度ゼンマイを巻き上げることによって一年間自動的に動くことを企図してこの製作にあたった。六角柱の各面に不定時法により時刻を表示する割駒【わりこま】式の和時計表示盤、二十四節気の表示盤、七曜および時打ち表示盤、十干十二支表示盤、月齢および旧暦日表示盤、定時法による輸入の洋時計の表示盤を配し、天頂部に京都から見た太陽と月の運行を示す天球儀を設け、これらを真鍮製のゼンマイを動力として連動して自動的に駆動させ、鐘を打って時を知らせる仕組みであった。その構造は精巧で、ことに割駒の位置を移動させ、日々変動する一時【とき】を自動で表示する割駒式の和時計機構には、旧来にない虫型の変形歯車が用いられ、久重の独創性が顕れている。また天球儀では、太陽や月の運行周期、不定時法の明け六つ・暮れ六つの定義が正確に再現されており、天文学や暦学を修めた久重の知識が反映されている。外装には、彫金や蒔絵、螺鈿など、当時の工芸技術が結集されている。なお、二十四節気の表示盤の裏面には「京都住/田中近江大掾製」と刻銘があり、久重の製作であることを裏づける。
 万年自鳴鐘は完成後売却されることなく田中久重の手元に置かれた。なお、久重は万年自鳴鐘製作後その技術を認められて佐賀藩精煉方に招かれ、さらに故郷久留米藩に出仕して技術指導にあたり明治を迎えた。そして明治六年(一八七三)東京に居を移し、同八年に現在の株式会社東芝へとつながる田中製造所を創立した。万年自鳴鐘はしばらく田中製造所に置かれたが、その後東京帝室博物館で公開され、昭和六年には東京科学博物館(国立科学博物館の前身)に寄託され、現在まで国立科学博物館で保存公開されている。また、田中家の所有であった万年自鳴鐘は、昭和二十八年に東京芝浦電気株式会社(株式会社東芝の旧称)へ譲渡され現在に至っている。
 万年自鳴鐘は、わが国と外来の機械工作技術や天文・暦の知識、そして工芸技術を融合した和時計の最高傑作であるとともに、幕末の精密機械工作技術の水準を物語る貴重な資料である。

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