明石藩舞子台場跡
あかしはんまいこだいばあと
概要
明石藩舞子台場跡は、幕末、大坂湾防衛計画の一環として、瀬戸内海上交通の要衝である明石海峡の防備を目的として、明石海峡の本州側、舞子の地に築造された軍事施設の一つである。文献史料には舞子砲台ともみえる。
幕末、開国を求める欧米列強の相次ぐ来航によって、江戸幕府は海防強化を余儀なくされた。幕府膝下の江戸湾品川沖には台場が築造され、大坂湾周辺においては日米和親条約が締結された安政元年(1854)、露国のプチャーチンがディアナ号で来航して開国を要求したことから、安政2年幕府によって大坂湾防衛計画が決められ、周辺諸藩に対して台場築造、大砲鋳造等の命令が下された。既に嘉永6年(1853)に三箇所の台場を築造していた明石藩は、この命令に基づき文久2年(1862)に9箇所の台場を築造したが、翌3年に至り将軍徳川家茂の巡見に先だって台場の改築を幕府から命じられ、一万両の貸し付けを受け、台場を造営することになった。舞子台場は、徳島藩によって文久元年に舞子の対岸淡路島北端に築かれた松帆台場と一対となって明石海峡の防備を担うこととされた。
台場の造営は、文久3年に開始、翌元治元年(1864)あるいは慶応元年(1865)には台場の工事が完了したとされる。台場の縄張り・構造については勝海舟の現地指導を受けた。ただ、砲台に伴う他の付帯施設は構築されず、実際には大砲も据え付けられずに、明治維新を迎えたようである。台場は半星形稜堡式の形態をとり、総石積によるものであった。橋本海関『明石名勝古事談』によれば、前面には砲門が15基設けられ、背後に5つの石製円形門等があったという。
近年に至るまで舞子台場は残存状況が悪いと考えられていたが、平成15年度に神戸市教育委員会が実施した共同住宅開発に伴う発掘調査によって台場石垣を確認したのを皮切りに継続的に調査した結果、実際には台場の遺構が良好な保存状態であることが判明した。台場は半星形稜堡式をとり、花崗岩を用いた総石垣造であって、復元幅(東西両翼最大長)は約70m、高さは残存する下層の石垣だけでも約6mあり、築造当初の高さは約10mと推定される。海側の石垣は角石を主としてスダレ加工等丁寧な表面加工を施し、石垣の下部には土台木を据える基礎工事を行っていることも確認された。
舞子台場跡は、幕末開国期の欧米列強の軍事的緊張のなか明石海峡防備のため造営されたもので、当時の我が国の政治・軍事・外交を知る上で欠くことのできない重要な遺跡であり、かつ遺構も良好な状態で残っていることから、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。