原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)
げんばくどーむ(きゅうひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)
概要
原爆ドームは、第二次世界大戦の末期、広島に投下された原子爆弾によって破壊された広島県産業奨励館の遺跡である。
第二次世界大戦は、昭和十四年(一九三九)ヨーロッパにおいて始まった。日本は、満州事変、日中戦争開始にともない中国大陸に軍を進めていたが、昭和十六年真珠湾等を攻撃して、いわゆる太平洋戦争が開始され、日本は、緒戦において東南アジアおよび南大平洋に戦域を拡大したが、やがて連合国の反撃を受けることとなり、昭和二十年になると、アメリカ軍による本土爆撃の激化や沖縄上陸によって、日本の敗色は濃くなっていった。アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言発表の後、広島への原子爆弾投下、ソ連の参戦、さらに長崎への原子爆弾投下があり、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。
昭和二十年八月六日、テニアン島を発進した米軍B二九爆撃機三機は広島市上空に侵入、午前八時十五分に原子爆弾を投下、爆心地を中心とする半径約二キロメートルの広島市街が廃墟と化し、およそ一四万人(昭和二十年十二月末までの総数・広島市調査)といわれる多数の人々の生命が失われた。原爆ドームは、爆心地の北西約一五〇メートルにおいて被爆した広島県産業奨励館の残骸である。
旧広島県産業奨励館の建物は、明治四十三年(一九一〇)の広島県会決定を受け、広島県物産陳列館として、建築家ヤン・レツルの設計に基づき、大正四年(一九一五)元安川東岸の地に建設され、一部鉄骨を用いたレンガ造り三階建で、正面中央は五階、その上に銅板の楕円形ドームを載せ、洋式庭園と和風庭園をもつ瀟洒な建物として市民に親しまれた。大正十年に広島県立商品陳列所、さらに昭和八年に広島県産業奨励館と改称されたが、第二次世界大戦の激化にともない、昭和十九年に館の業務が廃止され、被爆当時は内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材統制株式会社等の事務所として使用されていた。被爆の際建物は炎上し、館内の職員は全員死亡したが、建物はからくも全壊を免れた。
旧広島県産業奨励館は、第二次世界大戦後危険建造物の撤去が始まるなかで、その存廃が議論されたが、除却は取り止められ、いつしか人々によって原爆ドームの名で呼ばれるようになった。また昭和三十年には、原爆ドームを基軸として設計された広島平和記念公園が完成した。
昭和三十年代後半、建物の風化が進み再び存廃の論議があったが、昭和四十一年に広島市議会が原爆ドームの保存を決議した。これを受けて保存のための募金運動が行われ、翌年募金による第一回目の保存工事が行われた。平成元年(一九八九)には再び募金運動が行われ、募金と市費により、同年から翌年にかけて第二回目の保存工事が行われた。
原爆ドームは、二回にわたる保存工事によって被爆当時の姿をよく保ち、平和記念公園の一部として、広島市によって管理されている。なお、平和記念公園においては、原爆死没者慰霊碑前で平和記念式典が行われており、また同公園内の広島平和記念資料館に被爆資料が保存・展示されている。
原爆ドームは、第二次大戦末期における原爆投下の歴史的事実と人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝える遺跡であり、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和希求のシンボルとなってきた。よって、日本の近代のみならず世界の歴史を理解する上で欠くことのできない重要な遺跡として、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。