日向洞窟
ひなたどうくつ
概要
本遺跡は、米沢盆地の東北縁、宮城県の白石市方面から奥羽山脈を米沢盆地に抜ける国道113号線の出口に当たる北側山地に所在する。付近には、本洞窟のほかに尼子洞窟群、観音岩洞窟群など14地点に洞窟遺跡群が存在している。洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。
この日向洞窟は、通称「立石」(標高230メートル)の麓に南に開口する。立石は凝灰岩塊の露頭で積年の侵蝕、風化作用によって形成された4か所の自然洞窟、岩陰が居住に利用されたものである。このうち最も規模が大きい洞窟を日向第1洞窟、第1洞窟の真上に小規模な日向第2洞窟、さらに第1洞窟より東へ約15メートルの所に日向第3岩陰、第1洞窟より西へ約40メートルの所に日向第4岩陰が位置する。洞窟前面には豊富な水量の小川が流れ、ゆるやかな勾配で、「白龍湖低湿地」に臨む。
発掘調査の結果、遺跡の中心が日向第1洞窟にあることが判明した。洞窟内には、基盤上に5層の堆積層が認められ、第1層の表土には繩文時代晩期以降の遺物、第2層には繩文時代晩期から早期の各時期の遺物、第4層には繩文時代草創期の遺物が包含されていた。第3層と最下層の第5層には遺物の包含は見られない。このうち特に第4層の繩文時代草創期に属する土器、石器は、新潟県小瀬ヶ沢洞窟、長崎県福井洞窟等と並んで、旧石器文化から繩文文化への発展過程を解明する上で極めて重要な資料を提供するものである。土器は、繩文時代最古の隆線文系土器をはじめ、後続爪形文系土器、多繩文系土器の各様式が存し、現在までのところ、日本海側の草創期土器の北限をなしている。このことは、日本列島において土器製作が開始された当初の繩文土器の普及状況の一端を示すものである。また、伴出の石器は、石鏃、石槍、有舌尖頭器、断面三角形の鑚、局部磨製石斧、矢柄研磨器等他の時期には例を見ない程多種にわたる。このうち、矢柄研磨器、断面三角形の鑚は、草創期の一時期に限って出現し、早期以降に継承されないで姿を消す特殊な種類であり、それらは山内清男によって繩文文化成立にかかわって大陸から渡来した石器の一部であろうという説がなされた注目すべきものである。
高畠町の洞窟遺跡群のうち、草創期の遺物を包含する洞窟は、ほかに火箱岩洞窟、一の沢洞窟、神立洞窟があり、この地が草創期における中核地帯の一つであることを示している。その中にあって、規模の大きな日向洞窟は、最も内容の豊富な遺物群を出土したものとして重要である。