織田信長自筆書状〈十月二日/長岡与一郎宛〉
おだのぶながじひつしょじょう
概要
織田信長(一五三四~八二)が長岡与一郎(細川忠興)に与えた自筆の感状である。天正五年(一五七七)八月、松永久秀・久通父子が信長に反旗を翻した時、その党である森秀光、海老名勝正らが大和片岡城に拠って信長に抗したが、惟任光秀、長岡藤孝らの攻撃をうけて十月一日片岡城は落城した。この時、藤孝の嫡男与一郎(一五六三~一六四五)は、当時十五歳にして、弟の頓五郎(昌興)とともに片岡城に一番乗りの功名を立てた。このことは『信長公記』の同日条にも「両人之働無比類之旨被成御感、忝も信長公御感状被成下後代之面目也」とみえている。
十月二日付の信長の書状は、与一郎の折紙の報告に対し、その軍功を賞したもので、本文は「おりかみ披見候、いよいよ働候事候、無油断馳走候へく候、かしく」と極めて簡潔であるが、信長の人柄を偲ばせるところがある。また、附として堀秀政副状は、信長の馬廻り衆の堀秀政(一五五三~九〇)が、この感状が信長の自筆であることを証明したものである。
信長の書状は「天下布武」の印を捺したものなど、あわせて千百二十二通を数えるが、それらのほとんどは右筆の手になり、信長自筆と伝えるのはわずか十数通のみである。本書状は、細川家に伝来した最も確かな信長自筆書状として注目される。