老人像
概要
白いひげを豊かに蓄えた老人が胸に手をやり、上方を見つめている。まるで聖書の一場面のようなこの作品、作者がいったい誰なのかを前もって知らされていなければ、日本人画家の筆と思う人は少ないであろう。近づいてみると、わずかな種類の絵具だけを用いて心憎いほどに豊かな色彩が生みだされていることに驚かされるが、一方で、左手の親指つけ根の位置や左肘の位置関係に苦心の跡がうかがえる。だが、そんなかたちの不安定さを覆させるほど、油絵技法の伝統に限りなく近い、完成度の高い画面に仕上がっている。
作者の原田直次郎は、1884(明治17)年、自費でドイツのミュンヘンアカデミーに留学した。原田が巨勢という名で登場する森鴎外の小説『うたかたの記』にあるように、当時ミュンヘンひいてはドイツに留学していた日本人は法律や医学などの習得を目的としており、美術修得を目的としたものは皆無に等しかった。なぜミュンヘンを選んだのか、その理由は原田の兄で地質学者の豊吉が先行してこの地に留学していたからであった。原田は留学前、高橋由一に油絵を学んだが由一はモティーフ(描く対象)にたいへん忠実な描き方であったから、原田が当時でいうところの片田舎、よく言えば伝統が残るミュンヘンでのアカデミックな写実表現を習得することは抵抗の少ない自然な流れであった。原田はドイツで学んだ後、パリ美術大学でも学び、帰国後は後進の育成、装幀図案の制作、明治美術会を中心とする展覧会への出品など多方面で活躍した。
本作品の制作年代は不明だが、同じモデルを別の角度から描いた油絵の小品があり、それは1886(明治19)年、ドイツ時代であることから、ほぼ同時期の作品と考えられる。36歳で夭逝した画家の数少ない完成作のひとつである。(田中善明)