通法寺跡
つうほうじあと
概要
通法寺は、早く鎌倉時代初頭において源頼義建立と伝えられていて「源氏之御願」といわれ、尓後或は「関東厳重之御祈祷所」、或は「源氏御氏寺」ともいわれて来た。而してその本堂の地下には頼義が埋葬され、その縁辺に義家の墓所があるとの伝えも古い。寺運に消長あり、天正年間寺中炎上し、江戸時代に入っては、衰微の極に達していたが将軍綱吉の時に至り、源氏としての由緒を重んじ、且つ隆光の盡力によって再興されることになり、元祿13年11月落慶供養を行った。明治維新後、寺は廃されて石丸神社となったが明治40年壷井八幡神社に合祀され、いまは荒蕪地にも近い状況となっている。
寺跡は山の谷と称せられる谷状地の入口に位し、低い丘陵の南麓にあって、前面には御廟谷の丘陵がある。旧寺域中いまのこるところは、その西半の主要部であって、山門、鐘楼の建物及び南面する本堂の礎石等が遺存し、西端部の観音堂は頼義の墓所といわれているところであるが、いま堂宇は撤去され、墓碑が立てられている。御廟谷の丘陵上には頼信と義家の墓がある。いずれも饅頭状に高く土盛され、頂部には石柵をめぐらしている。
思うに寺跡の北方約5町の地には壷井入幡が鎭座し、この壷井一帶は河内源氏の據地であったのであるから、盖し通法寺はその信仰の中心として建立されたものであり從って本寺跡は河内源氏の形成発展して行く様樣相を示すものとして歴史上注目すべきところといわねばならない。三代の墳墓はその徴証十分とはいえないが寺域に関聯あるものとして、且久しく土地に伝えられた伝承として、指定の地域に包含するものである。