毛馬内の盆踊
けまないのぼんおどり
概要
秋田県鹿角市の毛馬内地区に伝承されている盆踊で、毎年八月二十一日から二十三日にかけて、地区内の本町通りを舞台に踊られている。
その起源は定かではないが、文化・文政年間(一八〇四-三〇年)に成立したと考えられる菅江真澄【すがえますみ】の『鄙廼一曲【ひなのひとふし】』に「盆踊大【だい】の坂【さか】ふし」の記事があることから、少なくとも江戸中期からは行われていたことが確認できる。その後、日中戦争から第二次世界大戦にかけて一時中断するが、戦後復活し、現在に至っている。
盆踊当日は、通りの中央数か所に篝火【かがりび】が焚かれ、揃いの半纏【はんてん】姿の地区内の若者たちによる「呼び太鼓」の音により、踊り子が篝火を囲んで内向きに細長い輪を作る。踊りは、祖先供養の意味をもつといわれる「大の坂踊り」と、より娯楽的な「甚句【じんく】踊り」の二つがあり、最初に太鼓と笛の囃子が付く「大の坂踊り」が、続いて歌のみによる「甚句踊り」が踊られるのが恒例である。なお、現在はこれらの後に、「鹿角じょんがら」と称してじょんがら節を余興として踊り、その日の盆踊を締めくくっている。おそらく、祖先供養の踊りである「大の坂踊り」に、より娯楽的な「甚句踊り」が加わり現在の構成になったものと考えられる。
地元で仏の手向けのための踊りであると言い伝えられている「大の坂踊り」には、かつて歌もあったが、近代になってしだいに歌われなくなり、第二次世界大戦以後は太鼓と笛のみで踊るという現在の形式になった。直径約一メートル、長さ約二メートルに及ぶ大太鼓を先頭にして、子どもたちの踊りが続き、その後に次々と大人の踊り手が輪に加わり、静かに踊られる。「甚句踊り」は、七・七・七・五の詞章の鹿角甚句による踊りで、豊作を祈り祝うもの、郷土の風物を称えるものなど多数の詞章がある。歌い手はかつては踊りの輪のところどころに入って歌ったが、今では通りの中央二か所の定められた場所で歌うようになっている。二つの踊りは、いずれも篝火を囲んで踊る輪踊で、つねに輪の内側を向いてゆったりとした振りで踊るのが特徴である。
また踊り手の衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下には水色の蹴出【けだ】しを付け、胴〆【どうじ】めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋に雪駄あるいは下駄を履く。女性は紋付・江戸褄【づま】・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色【ときいろ】の蹴出しをつけ、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋に草履を履く。なお男女とも、豆絞りの手拭いで額を隠すようにして頭を覆い、こめかみから前に折り返して口元を隠し顎の下で結ぶ、独特の頬被りをする。
以上のように毛馬内の盆踊は、祖先供養の盆踊に娯楽的要素の踊りが加わって今日の姿に至るまでの変遷の過程を示すものとして貴重であり、また地域的特色も顕著である。
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