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陸奥上街道

むつかみかいどう

概要

陸奥上街道

むつかみかいどう

史跡 / 東北 / 宮城県

宮城県

大崎市岩出山

指定年月日:19900222
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

 本街道は、奥州街道一関(岩手県一関市)から栗駒(宮城県栗原郡栗駒町)、真坂(同郡一迫町)を通って岩出山(玉造郡岩出山町)に出て、出羽街道に至る道である。安永2年(1773)の『風土記御用書出』には、「上街道」と記されている。この道は古く「松山道」と称されており、『陸奥話記』、『吾妻鏡』にみえる。『吾妻鏡』文治5年(1189)8月21日条には、「爰2品経松山道、到津久毛橋給」とある。この時源頼朝の軍勢は奥州平泉の藤原氏を討伐するため、多賀城の国府を出て玉造郡に向かい、奥州藤原氏の拠点であった多賀波場城を攻めた。藤原泰衡はすでに逃げており、頼朝は玉造郡より葛岡郡に出て、松山道を経て平泉に向かったのである。「津久毛橋」は芭蕉行脚に同道した曽良の旅日記にもみえ、中江川(栗原郡金成町)にかかる橋である。曽良の日記により、芭蕉は平泉の帰途本街道を通ったことが知られる。
 今回指定しようとするのは現在国道・県道になっている部分を除く、岩出山町内の2・8キロメートルである。この部分には2か所に一里塚が残っており、なかでも天王寺一里塚は盛土が高く対をなしている。また、街道の両側約1500メートルにわたり松並木の続いているところがあり、千本松長根と称するが、古街道の面影をよく漂わせている。頼朝が攻めた多賀波場城跡は葛岡(岩手山町)にあり、街道の北に位置する。出羽街道と結ぶ地点に天王寺という小庵が現存し、正和2年(1313)・嘉暦2年(1327)の板碑などが残っている。
 本街道は昭和52年度に宮城県教育委員会が調査を実施し、昭和53年度より4か年をかけて岩出山町教育委員会が整備工事を行った。本街道は旧道の残っているところが多いが、廃道となっている部分については旧道の復原に努めた。路面幅は1間半(2・7メートル)を標準とし、路面を維持するために一部石張りを行ったが、歴史的雰囲気を損わないように配慮した。また、道標・標識や説明板を設置して利用者の便に供した。
 この道は奥の細道の一部として著名で、旧道の遺存度も良く、その歴史的価値は高いので、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。

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キーワード

平泉 / 街道 / 奥州 / 一里塚

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