達谷窟
たっこくのいわや
概要
達谷窟は岩手県南部、奥州藤原氏の拠点平泉の南西約6kmに位置する。北上川の支流である大田川沿いの谷を西にさかのぼると、谷の分岐点となる丘陵尾根の先端部に現在の達谷西光寺の境内がある。境内西側には、東西長約150m、最大標高差約35mの岸壁があり、その下部の岩屋に懸造の窟毘沙門堂が造られている。この西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。これらの岸壁を中心にした建物と磨崖仏が達谷窟を象徴するものであり、現在でも達谷西光寺の境内に往時の面影をとどめている。
『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日条によれば、源頼朝が平泉を攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に「田谷窟」に立ち寄ったとされる。これが史料上の初見である。また、同条によれば、この岩屋は坂上田村麻呂が当地を攻めた際、蝦夷が要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂がこの前に多聞天像を安置した九間四面の精舎を建てて西光寺と号したという。位置から見てこの岩屋は当時の幹線道路である「奥大道」の経路に面していたことが推測される。
窟毘沙門堂は達谷西光寺の境内にあるが、西光寺はその別当であり、両者は厳密に区別されていた。窟毘沙門堂は近世初期の建物が昭和21年に焼失し、昭和36年に再建されて今日に至っている。この南側に蝦蟇が池があり、その中島に弁天堂が建っている。昭和63年、平泉町教育委員会が窟毘沙門堂の前にトレンチを設定して発掘調査したところ、東西に延びる石組みが確認された。これは川原石を積み上げた池の護岸と考えられ、大量の「かわらけ」(土師器皿)が出土した。かわらけは柳之御所遺跡など平泉の中枢部で出土するものと同じく12世紀後半に比定される。この成果から考えると、現在の蝦蟇が池は藤原氏の時代までさかのぼり、仏堂の前面に池が伴うという浄土庭園に通じた空間構成が形成されていたと考えられる。
窟毘沙門堂の東側には現在の西光寺の本堂や金堂、不動堂などがある。さらにその南東側の「ようげ」と称される地の背後の尾根には空堀が確認され、中世の要害と推定される。達谷窟は、中世には窟毘沙門堂を中心に周辺に広く多数の子院が分布していたことが知られるが、近世以降に別当西光寺と脇院鏡學院を残して退転した。しかし、達谷窟としてその後も広く信仰の対象となってきた。
このように達谷窟は、藤原氏の時代から象徴的な岸壁の岩屋に仏堂を造り、その前面に池を伴う有力な寺院であり、中世には周辺に子院を有していた。したがって、平泉における宗教施設の実態を理解する上でも欠くことのできない重要な意義をもっている。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。