武蔵国鶴見寺尾郷絵図
むさしのくにつるみてらおごうえず
概要
本図は、楮紙六紙を貼り継いで西を天にして、「寺」を中心として寺尾郷の台地を大きく描き、東側に鶴見郷、東海道、鶴見川、北側に吉成【よしおり】郷、南側に「子安【こやす】郷」「入江【いりえ】」などの周辺範囲内(旧橘樹郡内、現横浜市鶴見区域)に存する「小池堂」「子ノ神」などの建物、田地、景観などをも表現している。
本図の作成目的は、朱線と墨線の二種類の線と「本堺堀」「新堺押領」という記載から堺相論に際して作成されたもので、作成主体は「寺」と想定できる。寺は正面三間で太い柱と縁つきの建物として描かれ、屋根は茶色で檜皮【ひわだ】葺を示している。台地の東側から入り込む谷の最奥部に立地していたことが知られ、寺谷【てらたに】の谷頭に現地比定することができる。また「本堺堀」線は、寺を中心にして溝・堀・谷と台地との線に引かれており、強調するために墨線の上に朱線を重ね書きしている。この台地と谷とを画する本堺堀の朱線が、本来の寺領の範囲を示す線である。「新堺押領」線は墨線を太めに書き、さらに道を示す橙色の線が引かれている。押領箇所と寺領各々に関する墨書は新堺押領線を対称軸として記されていることが知られる。押領者のうち、「寺尾地頭阿波國守護小笠原蔵人太郎入道」がおそらく中心人物で、『尊卑分脈【そんぴぶんみゃく】』から小笠原長義【ながよし】に比定されるものの、「師岡給主但馬次郎」「末吉領主三嶋東大□【(夫カ)】」の人物像は不詳である。
観応元年(一三五〇)九月二十四日付の上杉憲顕【のりあき】が「正統庵塔主」に宛てた奉書【ほうしょ】によれば、当該時期まで寺尾郷をめぐる相論が展開されていたことになる。また、本図の紙背には「建武元 五 十二 正統菴領鶴[ ]圖」「寺尾地圖」という追筆になる裏書や紙継目裏花押などが認められる。さらに「正統菴」は応安四年(一三七一)隼人佑某禁制【きんぜい】に「建長寺正統菴領武蔵国鶴見郷同新市事」とあることから、南北朝期には建長寺塔頭【たつちゅう】であり、鶴見、寺尾両郷を所領としていたと考えられる。以上のことから、本図の成立時期は南北朝初期であり、建武新政期に領家【りょうけ】正統庵が寺領回復を意図して作成し、また訴訟のための絵図であったと考えることができよう。
このように、本図は台地地形と谷地形を明瞭に示すとともに、建物と集落、川と池、道路と橋、耕地などの描写や地名、人名などの記載が明瞭であるという特徴を有し、併せて関東地方における集落、水利と耕地の様相を描く唯一の絵図として貴重である。