下野街道
しもつけかいどう
概要
下野街道は,江戸時代に整備された会津若松城下から下野今市に至る全長130km余りの街道で,南山通りともいい,関東側では会津西街道と呼んだ。会津から江戸への最短の道で,会津藩の年間数万俵にも及ぶ江戸廻米の輸送路でもあり,会津藩,北越後の新発田藩,村上藩,出羽の庄内藩,米沢藩などの参勤交代にも使用された主要な街道であった。
下野街道の整備が本格化するのは,寛永20年(1643)に保科(松平)正之が会津藩に移封されてからである。会津藩の正史の『家世実紀』によれば,正之は正保元年(1644)に江戸参勤と日光社参のためにこの街道を使用し,以後二代目の正経と合わせると20数回も使用している。天和3年(1683)の地震による山崩で,参勤交代及び廻米輸送は白河ルートに変更されたが,これ以降も天領の南山御蔵入領の年貢米や坂下煙草,麻,椀木地などの輸送や,今市を経由して会津地方へ塩を運ぶ道として利用されるなど,物流の中心街道として機能し続けた。明治17年(1884),福島県令三島通庸により下野街道に代わる新道が設置されたことに伴い,物資の輸送路としての機能は急速に衰退していった。
下野街道に関する文献としては,江戸後期の地理学者である古川古松軒の『東遊雑記』,吉田松陰の『東北遊日記』,明治11年に会津地方を旅行した英国婦人イザベラバードの『日本奥地紀行』などの著名な紀行文がある。下郷町域の下野街道は延長約22kmに及び,そのうち10km程が旧状を良く留めている。昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた大内宿は,江戸時代の街道宿場町の面影を今に留めている。昭和58年度に福島県教育委員会による「歴史の道調査」が実施され,平成7年度から11年度に文化庁補助による「歴史の道整備事業」が行われた。
下野街道は,江戸前期には会津藩の参勤交代や江戸廻米に使用された主要街道であり,江戸中期以降は会津地方と関東を結ぶ物流の道として重要な役割を果たした。よって境界の確定できた約10kmの古道と三郡境の塚,茶屋跡,一里塚,馬頭観世音碑などの関連遺跡を史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。
下野街道は,江戸時代に整備された会津若松城下から下野今市に至る延長130km余りの街道で,南山通り,日光街道ともいい,関東側では会津西街道と呼んだ。会津から江戸への最短の道で,会津藩の年間数万俵にも及ぶ江戸廻米の輸送路でもあり,会津藩,北越後の新発田藩,村上藩,出羽の庄内藩,米沢藩などの参勤交代にも使用された主要な街道であった。
下野街道の整備が本格化するのは,寛永20年(1643)に保科(松平)正之が会津藩に移封されてからである。会津藩の正史の『家世実紀』によれば,正之は正保元年(1644)に江戸参勤と日光社参のためにこの街道を使用し,以後二代目の正経と合わせると20数回も使用している。天和3年(1683)の地震による山崩で通行困難となり,参勤交代,廻米輸送は白河ルートに変更されたが,これ以降も天領の南山御蔵入領の年貢米や坂下煙草,麻,椀木地などの輸送や,今市を経由して会津地方へ塩を運ぶ道として利用されるなど,物流の中心街道として機能し続けた。明治17年(1884),福島県令三島通庸により下野街道に代わる新道が設置されたことに伴い,物資の輸送路としての機能は急速に衰退していった。
下野街道に関する文献としては,江戸後期の地理学者である古川古松軒の『東遊雑録』,吉田松陰の『東北遊日記』,明治11年に会津地方を旅行した英国婦人イザベラバードの『日本奥地紀行』などの著名な紀行文がある。下郷町域の下野街道は延長約22kmに及び,そのうち10km程が旧状を良く留めている。昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた下郷町の大内宿は,江戸時代の街道宿場町の面影を今に留めている。昭和58年度に福島県教育委員会による「歴史の道調査」が実施され,平成7年度から11年度に文化庁補助による「歴史の道整備事業」が行われた。
下野街道は,江戸前期には会津藩の参勤交代や江戸廻米に使用された主要街道であり,江戸中期以降は会津地方と関東を結ぶ物流の道として重要な役割を果たした。よって境界の確定できた約10kmの古道と三郡境の塚,茶屋跡,一里塚,馬頭観音碑などの関連遺跡を史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。