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肥前波佐見陶磁器窯跡

ひぜんはさみとうじきかまあと

概要

肥前波佐見陶磁器窯跡

ひぜんはさみとうじきかまあと

史跡 / 九州 / 長崎県

長崎県

東彼杵郡波佐見町

指定年月日:20000906
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

長崎県波佐見町は,近世の肥前陶磁器の生産地として著名な佐賀県有田町・伊万里市などに近接し,ともに陶磁器の一大生産地を形成して現在に至っている。丘陵が入り組んだ地形が展開する町内には近世を中心とした窯30基が盆地周囲の丘陵の8地区に分かれて良好な状況で遺存している。
 波佐見における陶磁器生産の開始は,最古の肥前陶器窯跡とされる佐賀県北波多村帆柱窯跡などよりやや遅れた,安土桃山時代末の16世紀末頃と考えられる。それからまもなくの17世紀初頭から前半にわが国初の磁器生産が始まる。波佐見の畑ノ原窯跡はこの時期に属する。畑ノ原窯跡は残存長54.4mで,窯室24余りからなる連房式登窯として,この時期の肥前でも屈指の規模をもつ。17世紀前半から中葉にかけての時期には,わが国初となる青磁が生産され,18世紀前半まで生産が続いた。その初期の窯が三股青磁窯跡で,終末期の窯が長田山窯跡である。「波佐見青磁」「三股青磁」と称されるこの青磁は,中国龍泉窯の影響がみられ,片切り彫りの高度な技術による流麗な草花文を配し,透明感あふれる釉が施される。隣接する三股砥石川陶石採石場跡は位置からみて青磁の生産に伴って操業したものと推定される。採石は近代まで続き,大きく削られた白い山肌は焼き物産地の景観を象徴する。
 17世紀後半になると,中国の磁器生産が衰退したため,波佐見も主に東南アジア向けの製品を大量に生産するが,17世紀末葉になると,中国の磁器の輸出が再開し,肥前磁器は国内向けに転換する。波佐見では18世紀以降巨大な窯を築いて日常容器を大量生産し,コストダウンを図るようになり,幕末までその方式は続いた。全長約155m,29室の永尾本登窯跡,全長約160m,33室の中尾上登窯跡はこの時期を代表する窯で国内最大の規模をもち,19世紀前半の天保年間にはこれらを含めて全長100m以上の窯が同時に8基が稼働していたとされる。俗に「くらわんか茶碗」と称される安価な食器はこのような生産体制に支えられたものであり,全国各地の庶民に至るまで陶磁器を普及させた。なお,永尾郷に所在する皿山役所跡は,寛文6年(1666)に大村藩によって設置されて明治3年まで存続し,運上銀の徴収,製品の検査等波佐見窯の管理中枢の役割を担った。
 肥前陶磁器は近世を通じて全国的にもっとも広く流通する焼き物であるが,そのなかにあって波佐見窯は,初期の磁器,波佐見青磁と称される独特の優品の青磁,大規模生産による安価な日常容器などを生産しており,大きな歴史的価値を有している。その製品は全国各地に大量に流通しており,近世の陶磁器編年の基礎をなすものであり,近世の社会・経済を知る上で重要な資料でもある。よって波佐見窯跡の陶磁器の特徴を備え残存状況が良好な窯跡5基と陶石採石場跡及び皿山役所跡を史跡に指定し保護を図るものである。

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