坑夫
概要
荻原守衛 坑夫 明治40年 ブロンズ
高さ47.0
Morie Ogiwara, Miner l907
明治37年春のサロンでロダンの「考える人」をみて感動し、絵画から彫刻を志向しはじめた荻原は、再渡仏した同40年の末頃、アカデミー・ジュリアンでイタリア人をモデルに、これを作った。彫刻に転じて1年余りでこれだけの作品が生まれたのは驚くほかないが、ロンドンからたまたまパリを訪れた友人高村光太郎は、研究所で粘土のこの像をみて感心し、是非石膏にとるようにすすめた。「女の胴」とともに日本にもち帰った荻原初期の代表作である。頭から頚、肩、胸へかけての各部の塊の構成と、それらの動勢に生き生きと緊張した美しさは、日本にはじめて近代彫刻の本質が何であるかを具体的に示した。この作を第2回文展に出品した際、これより欠陥の多い「文覚」が受賞したのに、「坑夫」と「女の胴」は未完成を理由に落選になったというエピソードがある。したがってこれが展観されたのは翌年の第7回太平洋画会展であった。荻原守衡は長野県の生まれ、号を碌山。絵画を志して上京し、不同舎に学んだのち明治34年渡米、36年渡仏して口ダンに触発され彫刻をはじめた。41年イタリア、エジプトを経て帰国、文展初期に「文覚」(第2回)、「北条虎吉像」「労働者」(第3回)、「女」(絶作、第4回)と、生命感にあふれる作品を続々発表して活躍した。高村光太郎とともに日本に近代彫刻の扉をひらき、大きな影響を与えたが、帰国後わずか2年で夭折したのが惜しまれる。